1938年制定の国家総動員法とは?政党等の反応についても
1938年に成立した国家総動員法とは
国家総動員法(こっかそうどういんほう)とは西暦1938年(昭和13年)3月に帝国議会を通過し5月に施行(法律として効力が発生することを施行しこうと言います)された法律です。この法律は時の政府が戦争を勝ち抜くといったような目的を遂げるために日本社会の物資や資金にとどまらず、人材についても自由に活用することを許可する内容となっていました。普通ですと何らかの規制を設ける場合は、限定された分野に関する規制の法律案が議会で審議されその法律案が議会を通過して法律となり、その規制が社会のルールとなるといった段取りを経るものです。しかしこの国家総動員法が成立したことにより社会の様々な分野における規制が帝国議会での審議をおこなわずに勅令、勅令ちょくれいというのは天皇の名前で出される法的効力のある命令のことですが、これが出されることによってすぐ社会で規則となるようになりました。帝国議会の立法権(法律、社会のルールを決める権利)を軽視している疑いもあるこの法律は成立後、第二次世界大戦が終了した次の年1946年に廃止されるまで8年間効力を持ち続けました。
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この法律案は当時の日本政府の一機関である企画院(きかくいん)が作成しています。企画院は国の政策を企画する目的で近衛内閣になってからこれまであった組織を改編し作られた機関ですが、この機関は戦時経済統制を強める役割を担ったと言われているようです。この法律が関わる分野は大変広く、先ほど物資、資金、人材と書きましたが労働条件、労働交渉などの労務、物価や企業経営、貿易、輸送機関の管理、言論、研究などなど他にもまだありますが、日本の社会をくまなく制御することが出来るような内容で、国民は様々な場面で自由を奪われる結果となります。このような法律を通そうと政府の官僚が考えたのは支那事変が長期化し通常の日本国内の生産活動では大陸に派遣されている日本軍の需要に応えることが困難となっていたからなのだそうです。そのため政府は生産活動を制御し戦闘を継続できる体制を整えようとしました。中華民国との戦闘が法律誕生のきっかけということのようです。
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国家総動員法に関する政党等の反応
この法案が帝国議会に出された時様々な反応があったようです。政友会や民政党といった社会主義を支持しない政党は議員によって態度が異なったようですが、大部分の議員は当初この法案に反対の立場でした。民政党や政友会の法案に反対の議員からは日本が大変な時期であることを理由に憲法(大日本帝国憲法のこと)にある天皇の権限を侵す法案だという批判が出たそうです。勅令によって様々な規制を設定しようとする法律だからということでこのような批判が出たということでしょうか。一方この法律案に積極的に賛成した政党もありました。当時存在していた無産政党(むさんせいとう 労働者や農業従事者など財産をそれ程持っていない賃金などで生活している人々のための政治を掲げる合法的な社会主義政党のことです)、社会大衆党はその賛成派政党の一つです。当時の衆議院は社会大衆党のような積極的な賛成派は少数でしたが、近衛文麿が国民に非常に人気があったことから彼を中心とする新党を立ち上げ解散総選挙をするという政権側からの議員に対する脅しとも取れるような情報が出回り結果的に反対派が多数だった政友会や民政党からこの法案に賛成する議員が多く出てしまい、法案は衆議院を通過しました。貴族院でも法案は通過し法律として成立することとなります。財界からもこの法律に対する反発がありました。当時近衛内閣の大蔵大臣をしていたのは三井財閥の有力者である池田成彬(いけだしげあき)さんですが、彼はこの法律に反対したそうです。この法律には企業が発行する株式の配当に関する規制も含まれていたそうですが、企業の株式配当を政府がコントロールしてしまうことで株主に利益を還元するという企業側の生産活動の動機付けを弱めることになってしまうといったことが反対した理由だったという指摘があるようです。
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今回は国家総動員法について取りあげてみました。個人的に法律はわからないことが多く難しい印象がありますが、この法律は日本国民の生活を相当がんじがらめにしたとして批判が多いようですから重要な話なのかなと思い調べてみることにしました。法律案が出された当初からこの法律の問題点は国会議員の方々によって明確に指摘されていたようですから、本当は廃案になって当然のような気もします。しかし多くの議員が最終的には賛成にまわってしまいました。上の欄でも書きましたが衆議院を解散し近衛文麿首相の関わる新党が選挙で躍進して自分の議席を失うことを恐れた結果、法律案に対する態度を翻したということならば非常に残念なことです。節を曲げたというそしりを免れないでしょう。議員の足もとを見て法案を通過させようとしていたのなら当時の政権のやり方に問題があったと言わざるを得ません。帝国議会による立法権の健全な行使を行政権側の政府が阻害することがどれだけまずいことなのか私自身よくわかっているわけではないのですが、このようなことがまかり通るなら政府が暴走してしまうような気はします。当時の首相、近衛さんは当然この法案に賛成だったわけですが、法案を修正してでも議会を通過させようとしていたのですから相当な熱の入れようだったようです。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
議会の本来の姿が失われていく出来事に触れている話「1940年に発足した大政翼賛会とは?政党の反応についても」はこちらです。
第1次近衛内閣退陣後の近衛元首相の動きに触れている話「近衛文麿も入る1940年の新体制運動とは?内閣への影響も」はこちらです。
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