平沼騏一郎内閣とは?近衛文麿内閣の総辞職や複雑怪奇発言も
平沼騏一郎内閣とは
平沼騏一郎内閣(ひらぬまきいちろうないかく)とは西暦1939年(昭和14年)の1月5日という新しい年になって間もなくという時期に発足した内閣です。平沼さんは現在の東京大学法学部にあたる学校(帝国大学法科大学)を卒業したあと司法省に所属し検察官として活動します。検察官の中でトップの立場である検事総長や最高裁判所にあたる大審院の院長を務めました。その後司法大臣を1923年に担当し、後に天皇の諮問機関である枢密院の議長も務めたという経歴のかたです。前の内閣が退陣した後、次の首相として推薦するのに適した人物が平沼さんの他当時見当たらなかったという指摘もあるようですが、これまで元老として首相の人選に強い発言力を持っていた西園寺公望さんは平沼さんの首相就任に反対の意見だったと言われているようです。平沼さんは右翼勢力とのつながりが強いと見られていた人であり、天皇自らが政治をおこなうという考えを支持する立場だったことやイギリスやアメリカとの関係を良好に保っていこうという考えに乏しいことなどが西園寺さんに反対された理由だったそうです。しかし上で書きましたように代わりに推薦できる方もいないということで昭和天皇に平沼さんが推薦され首相担当の命令が出ることとなりました。この内閣でも支那事変(日中戦争)の問題が変わらず存在したわけですが、この内閣が担当していた期間に問題が解決することはありませんでした。平沼内閣の時にはノモンハン事件という日本軍とソ連軍の武力衝突も発生しました。
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第一次近衛内閣総辞職
平沼さんの前は近衛文麿さんが首相を担当していました(第一次近衛内閣)。近衛さんは1938年の12月頃の時点で、首相を続けようという考えはあまり持っていなかったという話もあるようです。日本がドイツやイタリアとの軍事同盟を結ぶかどうかについて内閣の中でも意見が分かれていたそうですし、近衛さんが自分の内閣のもとでドイツなどと同盟を結ぶかどうか判断することを避けた格好で1939年の1月5日に総辞職しました。また総辞職する前に日本側が汪兆銘さんのような中華民国国民政府の一部の人に働きかけ日本と中華民国との間の和平を実現しようという動きがありましたが、日本との和平を進めたいと考えていた汪さんのような人たちの主張に対し中華民国の軍関係者の指示が期待していたように集まらず、和平への話はその時点で進展しませんでした。そのような出来事があってそれ程期間が過ぎない頃に突然近衛内閣が総辞職することになります。首相を辞めるにあたって近衛さんは支那事変が新しい段階に入り東亜新秩序建設に向けて力を注ぐべき時、新しい内閣が新しい状況に対処する必要があるといった内容の、辞める理由としては正直よくわからない話を述べています。近衛さんは次の首相に平沼さんを推薦しました。また平沼内閣で近衛さんは無任所大臣という首相や他の大臣が担当しない事務を担当する大臣を引き受けています。
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「複雑怪奇」発言
この平沼内閣、長く続いた内閣ではありませんでした。1939年の8月下旬に総辞職して退陣します。平沼内閣発足後、政権担当期間を通してドイツやイタリアとの関係を強化するために同盟関係を結ぶかどうかを内閣の中で議論し続けていました。日本にとってはソビエト連邦を中心とする共産主義勢力に対抗することがドイツなどの国との連携強化の主要な目的でした。一方ドイツはイギリスやアメリカを念頭において日本と同盟関係を結ぶことに乗り気だったようです。ドイツ、イタリアと同盟を結ぶことでイギリスやアメリカとの戦争を招くことを憂慮した一部の大臣たちはドイツ、イタリアとの同盟に反対しました。しかしソ連を日本とドイツ、イタリアで挟み撃ちのような形成にしたい陸軍はドイツとの同盟に積極的でした。首相である平沼さんもドイツ、イタリアとの同盟締結に賛成の立場と最終的にはなったのだそうです。内閣を構成する大臣たちの間で意見がまとまりませんでした。そんな中ドイツはソビエト連邦と8月23日に不可侵条約(ドイツもソ連もお互い侵略しないようにしましょうという条約)を結ぶという行動に出ました。ソ連に対抗することを主眼として、日本がドイツやイタリアとの同盟を検討していたというのにです。しかも日本はソビエト連邦とノモンハン事件という武力衝突をしていた最中の話でした。同盟を組むかどうか検討している相手(ドイツのこと)が日本と戦っている敵(ソ連のこと)と手を組んだとも取れる条約が成立したわけですから日本政府は衝撃を受けました。この内閣でのドイツ、イタリアとの軍事同盟の話は無くなりました。平沼首相は現在の表現にし直すと、独ソ不可侵条約によって欧州は複雑怪奇な新しい情勢となったので、これを考慮し、これまでとは別の政策をおこなう必要があると判断しました。天皇陛下に報告してきた政策を変更し天皇陛下に御負担をかける結果となったことは誠に申し訳なく、このまま首相職にとどまるのは礼儀に反する恐れがあり、新しい体制を整えることが今必要なことだと信じます、といった内容の発言をして総辞職しました。この平沼首相の言った「複雑怪奇 ふくざつかいき」という言葉が当時盛んに取り上げられる結果となります。
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今回は近衛内閣の退陣と平沼内閣について一部取りあげてみました。結果的に支那事変が起きて長引かせてしまった時の内閣が近衛内閣ですし、この内閣が何を理由に退陣したのかそれまで知ることもなかったのでこれを機会に確認してみようと思いました。また平沼さんが首相になった経緯についても知りたかったのでこのような記事にしています。支那事変が新しい段階に入ったから新しい体制にしたほうがよいという理由は上でも書きましたが個人的に何かよくわかりません。談話内容を見ても和平交渉が上手くいかなかったから責任をとって辞めます。すいませんでした、というような話ではないように感じました。当時の大臣たちや政府関係者、日本国民はこれで納得したんでしょうかね。大臣がたの意見がまとまらず日独伊の同盟は平沼内閣では成立しませんでした。でもその後成立することになります。平沼内閣で海軍大臣や外務大臣が反対していた三国同盟が成立したのは何故なのでしょう。三国同盟を結べばイギリスやアメリカの対日姿勢が悪化するに決まっているのに。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
近衛首相の時に成立した同盟について触れている話「日独伊三国同盟とは?締結の理由やアメリカの反応についても」はこちらです。
平沼さんの名前が少し出てくる他の話「1934年の帝人事件とは?斎藤実内閣への影響についても」はこちらです。
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