1931年に日本で起きた三月事件とは?大川周明についても

1931年に発生した三月事件とは

 

日本で発生した三月事件(さんがつじけん)とは西暦1931年(昭和6年)に日本の陸軍内に存在していた軍人の私的なグループ、桜会(さくらかい)が中心となって日本の政権を奪い取ろうと企てた出来事です。ただ幸いというべきなのでしょう、この企て自体は実行に移されることはありませんでした。しかしこの計画の存在が後に軍内部で明るみになり衝撃を与えることとなりました。桜会というグループは部隊を指揮する立場である将校(しょうこう)少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐クラスの人が入会していたそうです。この桜会の目的は軍部が政権を握り政治をおこなうような国家体制を築くことだったそうです。議会で多数派を占める政党が政権を担うような政治のやりかたを尊重する考えはありませんでした。この政権奪取計画には軍人だけではなく、民間のいわゆる右翼と呼ばれる人たちや一部の国会議員も関わっていたそうです。この件で関与した右翼の中で代表的な人物としては大川周明(おおかわしゅうめい)の名前が良く出てきます。国会議員で関与したのは無産政党である社会民衆党に所属していた亀井貫一郎(かめいかんいちろう)、赤松克麿(あかまつかつまろ)といった人たちです。無産政党というのは労働者や小作人などの農民といった土地、生産設備、多額のお金といった生産手段を持たず、労働による賃金で生活している階級の人たち、無産階級(むさんかいきゅう)の利益を守るための政党で、当時合法的であった社会主義政党のことです。

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また陸軍上層部でこの計画を了承するような人たちもいたそうです。この事件が発生したころ陸軍大臣を担当していた宇垣一成(うがきかずしげ)もこの件を事前に承知していたものの、途中からこの計画と距離を置くようになったという指摘もあります。本来の計画では議会で多数を占める政党施設や首相官邸を右翼関係者が大勢で襲撃し国会を取り囲んで現在の政治を批判させそのような動きを抑える目的で軍を出動させ、その軍が武力を背景に議会勢力、内閣を抑え、当時の民政党政権を退陣させる予定でした。そして首相を担当する人物には誰がふさわしいか決定する影響力を持ち、天皇の重臣としての役割も果たす元老(げんろう)と呼ばれた人に圧力をかけ宇垣一成陸軍大臣を次の首相として推薦させ昭和天皇の許可を取り、軍部による政権を作る、以上のような予定だったそうです。ただ、将校クラスの人から反対意見が出たり、肝心の宇垣陸軍大臣が計画に否定的な姿勢を見せるようになったこと、当時の政権に反対するデモに参加する民衆があまりいなかったこと等々、諸事情があって計画は中止されることとなりました。この計画内容に関する情報は桜会関係者から結果的に軍の警察機能を担当する憲兵隊に伝わり、軍内部で大変問題になります。しかし計画を立てた軍関係者は処罰されることも無く、この事件そのものが揉み消されてしまいました。

 

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大川周明について

 

大川周明は上でも書きましたように右翼関係者としてこの事件に関与しました。事件のキーマンにもなる宇垣陸軍大臣にも、いざという状況になった時が来たときはどうするか?と言って首相を引き受ける考えがあるかどうかこの人が確認したという話もあるようです。この人については国家主義者、国粋主義運動の指導者、ファシズム運動の指導者などといった説明を目にすることが多いです。またイスラム教研究者としての側面があるそうです。ただ国家主義者、国粋主義、ファシズムといっても漠然として結局どのような政治体制を作ろうとしていたのかよくわからなかったのですが、一部にこの大川という人物は結局、社会主義体制の国を作ろうとしていたと主張する人もいるようです。実は学生時代大川という人は私有財産を否定して資本を社会共有の財産とすることを主張したマルクス主義に傾倒していました。また国家社会主義者(国家が主体となって社会主義的政策を推進し政治や経済を統制するべきだという考え方の人)といわれた北一輝という人物とも一時期まで連携を深めていました。後に方針の違いで関係は弱まったそうですが。社会の頂点として天皇が君臨する状態にはするものの、従来の政党による政治を否定し、軍部という集団によって政治権力を独占し、日本民族の文化を尊重する装いのもとで社会主義の政治をおこなう。そのような体制を目指していた人だという意見もあるようです。その後の政治の世界で一定の影響力を持ったそうで、そのためでしょうか第二次世界大戦で日本が敗れた後、東京裁判でA級戦犯だという容疑で起訴されました。ただ有罪にはなっていません。1957年、昭和32年に71歳で亡くなっています。

 

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今回は三月事件について取りあげてみました。昭和恐慌で日本の世の中が大変だった時の出来事です。一部の軍関係者が政権を奪おうという尋常ではない話であり、その後軍部の影響力が強まったことと関係があったのか知りたかったので調べてみることにしました。当時の憲法のもとでは軍部に対し内閣の影響力はそれ程強くはなかったのかもしれませんが、天皇自身が軍に対し絶大な影響力を持っていたはずです。その天皇が立憲民政党に政権を任せるということを許可したからこそ浜口雄幸内閣が政治を行い、浜口首相が東京駅で襲撃された後も幣原外相が臨時で首相職を代行していたわけです。それが昭和天皇の意向だったわけです。その昭和天皇の意向を否定し政権側に退陣を強要し自分たちの希望にそった人物を首相にさせて政治権力を握るという行為はどう考えても尊皇的行為ではありませんよね。当時の一部の軍人は表面では天皇を崇拝する姿勢を見せておいて、実は全く天皇の意思を尊重せず、単に時の天皇を利用しようとしていただけなのではないかと感じました。その行動を促す背景に一部の指摘通り社会主義が関係していたというのなら本当に恐ろしい話です。軍という集団が政治権力を独占し議会勢力の意見を相手にしないで政治を行う姿というのは特定の政党が独裁で政治を行っている国の姿と似ているような感じも確かにします。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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