アメリカ側にとっての沖縄戦の目的は何だったのでしょう

アメリカ側の沖縄戦の目的

 

西暦1945年(昭和20年)の3月下旬からアメリカ軍による沖縄への攻撃が始まります。このアメリカによる沖縄攻撃の作戦はアイスバーグ作戦と呼ばれました(アイスバーグというのは氷山や流氷を意味する単語だそうです)。アメリカが沖縄を攻撃し島の占領を目指した目的は沖縄地域を軍事的な拠点として日本本土や周辺地域からアメリカ軍を攻撃してくる日本軍を迎撃する、東シナ海周辺での作戦を支援する、日本軍の海上や空路での通信、移動を阻害すること、東シナ海、中国大陸沿岸、中国大陸の大河である長江といった海域、地域での連合軍側の海上移動、上空移動をより安全におこなうことが出来るようにすること、日本に対する軍事的な圧力をかけることだといった内容がアメリカ軍の作戦計画書の中で挙げられているようです。アメリカ軍が沖縄を占領し軍事拠点にすることが出来ると当時の技術でも様々な周辺地域(日本本土、日本側の勢力が強い中国大陸沿岸一部地域、台湾など)が飛行機で到達することの出来る範囲内に入ったらしく、航空機で攻撃することが可能になったそうです。また本格的に日本本土を攻撃する場合の支援をおこなう拠点として利用することが出来るという点に関しても重要な利点だという指摘もあるようです。元々アメリカ軍側は台湾を先に攻撃する計画も作っていたそうなのですが、フィリピン地域での戦闘にアメリカ側が勝利し支配下に置くことができたことで日本攻略という観点からは台湾の戦略的な価値は低下したらしく、沖縄などの南西諸島で拠点を得ることが優先されることになりました。

 

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日本側の沖縄戦の目的

 

1945年の1月に日本軍は帝国陸海軍作戦計画大綱という方針を作りました。この中で沖縄本島や他の南西諸島は台湾や小笠原諸島などの地域と共に前縁地帯と定められています。そのような地域に連合軍が攻めてきた場合には日本軍は徹底して闘い、敵の損害を出来るだけ大きくし、日本本土への侵攻までの時間を出来るだけ稼ぎ、その間に日本本土内で戦うための準備をしっかり整えよう。そしてしっかりした体制で日本本土に侵攻してくる連合軍側を迎え撃とうという考えだったようです。また日本側は一撃講和、アメリカ側に打撃を与えた上で日本にとって有利な条件でアメリカとの講和を結ぶことが出来る状況にしようと考えていたという指摘もあるようです。

 

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沖縄戦での死者数

 

アメリカ側の目論見に対し日本側の方針は徹底して抗戦することですので戦いをすぐに収束させるような事態とはならず、結果的に大勢の方々が命を落とす結果となってしまいました。沖縄で生活をされていた方々は戦いが始まる前に島から非難することも困難な状況だったため、島に残ってしまう方々が多く、激しい戦闘に巻き込まれてしまうことになりました。島から避難したくてもアメリカ側の艦船による無差別的な攻撃によって移動している船が沈められてしまうことになってしまうという事情があったようです。沖縄戦で亡くなられた民間の方々の人数は沖縄県の発表で約3万9000人、軍人や軍属ではないものの日本軍に協力して亡くなられた沖縄の方々は約5万5000人にもなっています。軍人や軍属として亡くなられた沖縄出身の方々は約2万8000人にものぼり、合計すると沖縄の方々は約12万2000人も亡くなられたことになります。沖縄出身の方々を除いた日本軍側の戦死者、行方不明者の数は約6万6000人、アメリカ軍側の戦死者の数は約2万人と言われています。合計すると約20万8000人にもなってしまいます。とんでもない人数です。

 

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今回は沖縄戦に関し一部取りあげました。記事でも数字を示した通り非常に大勢の方々が亡くなられた出来事ですし、日本の領土内での戦いとなった少ない事例のうちで特に有名なものの一つですので調べてみようと思いました。戦っている地域に居残ってしまうと大変なことになってしまうというのは、沖縄戦の前の年(1944年)にあったサイパン島での戦いを見ても言えることです。沖縄でも民間の方々が自決するようなことになってしまうという、いたましい出来事が報告されています。ただサイパンの時もそうでしたが島から逃げたくても逃げられない状態だったんですよね。船で移動している時に米軍に攻撃されて海上で命を落としては何にもなりませんし。こういったことをふまえると避難するのに適当な時期というのはいつ頃なのでしょう。海上を安全に移動できる時期が避難できる時期だということなのかもしれませんね。戦局がどう変化するかわかりませんから安全に日本本土に移動できる間に出来るだけ速やかに移動すべきだった、後付けで考えるとこういうことになるのでしょうか。3月末から始まるアメリカの沖縄への攻撃に対し日本軍の組織的抵抗が終わったのは6月で、7月に入りアメリカ軍は沖縄攻略の作戦が終了したと宣言します。日本軍側の現地の司令官が自決した日とされる6月23日は日本軍の組織的な戦闘が終了した節目ということで、この日を沖縄戦で亡くなられた方々の慰霊の日と後に沖縄県が定めることとなりました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

硫黄島攻略の意義について触れている記事「硫黄島の戦いでアメリカ軍が動員した戦力の規模は?」はこちらです。

終戦に大変影響した出来事について触れている話「ソ連が連合国側として参戦した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

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