湾岸戦争の時に日本政府はどのような対応をしたのでしょうか

湾岸戦争での日本政府の対応

 

西暦1990年(平成2年)の8月2日に中東の国、イラク共和国が隣接する国クウェートに侵攻し占領するという出来事が起き、国際連合はイラクに対して制裁を加えることを決めました。決められた期日までにイラクがクウェートから撤退しない場合、アメリカを中心とする国々がイラクを武力攻撃することが国連で認められる結果となります。国連の決議によってアメリカを中心とした複数の国々が参加する多国籍軍は、決められた期日、1991年1月15日までにイラクがクウェートから撤退しなかったことを理由にイラクを攻撃し始めました。これが湾岸戦争(わんがんせんそう)の始まりです。この戦争がおこなわれていた頃、日本政府はどのような対応をしていたのでしょう。国連が武力行使を認め、イラクと戦うことになるアメリカ中心の勢力、多国籍軍に日本政府は自衛隊を参加させませんでした。軍事行動に関与はしませんでしたが、多国籍軍が戦うために必要となる戦費を日本政府は支払いました。この湾岸戦争は1991年の4月に正式に停戦していますが、同じ月に日本政府は自衛隊を中東に派遣しペルシャ湾海域の安全確保に協力しました。日本政府の対応として代表的なものを挙げるとしたら以上のようなことになるかと思います。

 

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多国籍軍に不参加

 

日本政府は多国籍軍に日本の自衛隊が参加できるようにするための法律案、「国連平和協力法案」を1990年の10月(イラクのクウェート侵攻から2か月後)に国会に提出しました。国会でこの法案を承認してもらい法律として成立させ、自衛隊が多国籍軍に参加しても法的に支障が出ないようにしようとしたわけです。しかし国会ではこの法案に反対する議員がたくさんいたために政府の狙いに反して法案は承認されませんでした。法律として成立しなかったのです。社会党などの野党が法案に反対したのはあり得ることとしても、政権を支える自由民主党の中からもこの法案に反対する議員が出てきたことが大きく影響しこの法案は成立しませんでした。法案が廃案になったのは1990年の11月でした。このような経緯から日本政府は自衛隊を多国籍軍に参加させることを断念します。アメリカからは戦争に必要な物資を輸送したり補給するという面での貢献を日本に求められていたのだそうですが、先ほど書いた通り法律が通らなかったことで自衛隊が出ていき物資を輸送することは無理となりました。ならばということで民間の船や航空機を利用した物資の運搬をおこなおうとしたものの、企業の職員から安全面に関する心配を理由に強い反発が出て実現できませんでした。結局、物資の運搬などアメリカからの補給面での要請を断る結果となります。

 

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お金の支払い

 

アメリカからは補給面での協力の他にも多国籍軍が戦うために必要な戦費を出してほしいと要請されていました。この点については当時の法律の枠組みの中でも可能なことであったため日本政府も要請に応じました。支払ったお金の合計額は約135億ドルと言われているそうですが、これは一度に支払われたわけではありません。1990年の8月に10億ドル、翌月の9月に10億ドルを多国籍軍に支払い、中東の関係国に20億ドル支払い、1991年の1月に90億ドルを追加して支払い、その後5億ドルさらに追加して支払ったそうです。合計して135億ドルです。1991年の1月末の為替の交換比率は1ドルが131円くらいだったようですので日本円にして135億ドルは1兆7600億円くらいのお金になります。計算するまでもないことですが135億ドルは大変な額のお金です。

 

停戦後に自衛隊を派遣

 

1991年の2月に多国籍軍は湾岸戦争の停戦を表明しています。停戦の約束が正式に効力を持つようになったのは1991年の4月でした。正式に停戦となってからすぐに日本政府は海上自衛隊の艦船を中東に派遣します。派遣の目的は日本の船が中東地域の海上を移動する時の安全を確保する、というものでした。戦争が停戦となった状況であれば、自衛隊は派遣出来たということです。派遣された海上自衛隊が実際におこなった事はペルシャ湾の海域に存在していた機雷(きらい)を取り除く行為、掃海(そうかい)でした。機雷は船に接触して爆破し、船に損害を加えるための兵器です。この機雷を海に設置することで敵の艦船の航行の自由を奪うことが出来るため、湾岸戦争時ペルシャ湾に撒かれていました。この機雷を取り除き安全に船舶が海上を移動できるよう、海上自衛隊が中東に派遣されたわけです。停戦後ではありますがこのように人的な貢献も日本政府は実施しています。

 

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今回は1991年に始まった湾岸戦争の時に日本政府がおこなった対応について取りあげました。1990年の夏からイラクがクウェートに侵攻したという行動で世間は大騒ぎになっていたことを私も何となく記憶しています。中東からたくさん石油を買わせてもらって日頃からお世話になっている日本ですから多国籍軍に参加している国々、特にアメリカから協力を求められること自体、別に理不尽な話でもないような気はします。そういった国際的な要請がある中、日本政府は具体的にどう対応したのか個人的によくわかっていなかったこともあって今回調べてみた次第です。たくさんのお金を出して協力したという印象は強かったのですが、他に何をしたかというのはあまり覚えておらず、今回海上自衛隊が掃海艇(そうかいてい)という船を派遣したという話を目にして、そういえばそんな言葉を耳にしたことがあったなぁと記憶がよみがえってきました。自衛隊が国外に派遣されることが今までなかったため、この停戦後の掃海艇派遣についても国内で大変な議論になっていたようです。国連協力法案が成立しないことで戦争中に自衛隊を派遣できず、国際的に批判を受ける中、掃海艇を派遣したというのは他国からの期待に応えようとする当時の日本政府の苦心の表れのようにも感じました。政府としては米国の要請に応えようと法案を作って国会で承認されるよう努力はしたんですけれどねぇ。そういった努力が実らず他国から批判を受けたという点では当時の海部内閣が気の毒な感じもします。しかし民主的な過程によって国会で法案が廃案になったのですから他国だって日本の出した結論を尊重するべきなのではないかという気もします。米国も民主主義勢力のリーダー的な存在を自認するのなら日本のそのような事情を受け入れる寛容さ、他国の主権を尊重する姿勢が必要だと思うのですが。おまけに日本は経済面で大変な貢献をしているわけですし。金だけ出して人的貢献をしないなどという批判を日本は受けたらしいですが、巨額のお金を出しているのに何故そのようなことを言われなければならないのか首をかしげてしまいます。経済支援を軽視する人がいるものなのですね。お金がなければ戦うことも出来なくなるというのに。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

このような場合に議論となる憲法について触れている話「大日本帝国憲法を改正することになった理由は何なのでしょう」はこちらです。

軍事面の政策に強い反発が起きた他の出来事に触れている話「60年安保闘争でデモに参加した人々の人数はどれ位でしょう」はこちらです。

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