原敬内閣とは?成立した経緯やこの内閣の政策についても

原敬内閣とは

 

原敬内閣(はらたかしないかく)とは西暦1918年(大正7年)から1921年までの間、立憲政友会という政党の代表だった原敬(はらたかし)さんが首相を務めた内閣です。原さんは爵位(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵などがあります)を持った貴族(当時の日本は華族「かぞく」と呼んでいました)ではなく、旧長州藩や旧薩摩藩出身の人でもありませんでした。特権を持っている立場でも藩閥に属する人でもない原さんのような立場の人が内閣総理大臣となったのは初めてのことだったそうで多くの平民から内閣が発足した当時支持されたようです。政府が多額の予算を使う(たくさんのお金を使う)政治を行い、選挙民から支持され、原さんが政権を担当していた間に行われた衆議院総選挙で立憲政友会は勝利しています。ただ1920年以降は世の中が不景気となりそれまでと同様な多額の予算を使う政治はやりにくくなったようです。立憲政友会の関与した汚職が明るみになったりと政権に対する批判が強まっていた中、1921年に鉄道従事者の中岡艮一(なかおかこんいち)という18歳の男に襲撃されてしまい原さんは亡くなっています。この事件によって原敬内閣は終わることとなりました。

 

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原敬内閣が成立した経緯

 

原さんの内閣の前は陸軍の軍人として活躍した経歴を持ち旧長州藩出身の寺内正毅という人が政権を担当していましたが、1918年の7月から日本全国で発生した暴動事件、米騒動が大変な騒ぎとなり軍隊を出動させてようやく落ち着くような結果となっていました。このような出来事が発生してしまった責任をとるという理由で寺内さんの内閣は寺内首相含め大臣が全員辞職しました。その後誰が首相となって政権を担当するかで政治的発言力の強い元老と呼ばれた人たちが検討した結果、これまでも首相を経験したことのある西園寺公望(さいおんじきんもち)さんに引き受けてもらおうということになりました。しかし西園寺さんはこの元老側からの要請を断ります。理由は調べてみてもよくわかりませんでしたが、西園寺さんの引き受けられないという姿勢はその後も変わらなかったようです。西園寺さんは政友会の総裁をしていた経歴がある人です。当時衆議院で政友会は多数の議席を占めていました。西園寺さんは当時政友会の代表であった原敬さんに政権を担当させることを元老側に勧めたのだそうです。元老の中でも特に発言力の強かった山県有朋さんはこれまで政党関係者に政治を任せることについては否定的だったようですが、全国的な暴動事件が起きた後の民衆の不満が強かったこの時期は特権階級の人間ではなく平民の原さんのような人物が政権を担当するほうが世論も受け入れると考えたようで、西園寺さんが提案したように原敬さんに首相になるよう要請することとなりました。

 

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原内閣の政策

 

この内閣は重要な政策として教育の拡充、交通通信の拡充、産業の拡充、国防の充実を掲げていたそうです。他には選挙に関わる話として、選挙権を得ることの出来る条件を緩和したり、選挙区に関わる仕組みを変更したことも有名です。他国との関係についてはイギリスやアメリカとの関係を悪化させない、協調する方針で臨み、日本が孤立しないよう配慮したそうです。具体的には教育の拡充として高等学校10校、実業専門学校17校をつくることとし、交通の拡充としては鉄道の延長や道路の改良を行い、通信の拡充として電信線を設置する地域を拡大しました。産業、貿易の発展のためということで各地の港湾を改良し、国防の充実として軍事費を増やし海軍に関しては以前から海軍が強く要望していた戦艦8隻と動きの速い高速戦艦8隻を揃えた体制、「八八艦隊」となるよう予算をくんだようです。選挙についてはこれまで税金を10円以上納めなければ選挙権を得ることが出来なかったのを3円以上納めていれば選挙権を持つことが出来るようにしています。

 

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今回は原敬内閣について一部取りあげてみました。原敬さん自身大変有名な方ですし、この内閣が誕生したというのはこれまでとは異なる立場の人物が首相となったということです。そして軍関係の大臣と、外務大臣を除いて他の大臣は政友会の関係者が担当した内閣となり、これまでとは全く性格の異なる政権だったようです。日本国憲法下の政権にかなり近い感じがしましたし、そのような内閣が当時の世の中を仕切るとどういうことになるのだろうという思いもあって調べてみようと思いました。在任中の選挙で勝利したわけですし、国のお金をふんだんに使って地域のインフラを整備したり教育施設を増やしたり軍備を整えたりすることは当時の国民に支持されていたんですね。今の世の中で言えば全国各地で公共事業を大規模に行うような感じなのでしょうかね。大戦景気の後でやってきた不景気や汚職の話で攻撃されたりもして、政権を担当した期間を通して順風だったわけではないようです。最後には鉄道関係者に襲われてしまい非常に異常な形で退陣することとなりました。襲撃した人物がどういう背景で原さんを襲うにいたったのかについては右翼関係者とのつながりがあったという指摘もあるようですが、明確ではないようです。アメリカやイギリスと協調する外交姿勢が明確でこの原さんが生きていれば昭和の歴史も随分違うものとなっただろうと評論する人もいるようです。そんな多くの国民のためになるような人が襲われて命を落としてしまったというのは日本国にとって致命的な損失だったのかもしれません。今の日本の世の中では絶対にそのようなことが無いよう、治安当局の関係者にお願いしたいところです。原さんの周辺の警備は一体どうなっていたんでしょうかね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。

<(_ _)> ※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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