柳条湖事件後の関東軍の動きと政府(若槻礼次郎内閣)の対応

柳条湖事件

 

西暦1931年(昭和6年)の9月に現在の中国遼寧省(りょうねいしょう)の中心都市、瀋陽(しんよう)当時は奉天(ほうてん)と呼ばれていましたが、この都市の郊外、柳条湖(りゅうじょうこ)で日本の会社、南満州鉄道株式会社の鉄道が爆破されるという出来事が発生しました。この鉄道を守備する役目を担っていた日本から派遣されている軍隊、関東軍(かんとうぐん)は爆破を起こした犯人が満州地域の武装勢力だと表明しました。しかし実際は関東軍の関係者が鉄道を爆破しています。爆破が起きた地名の名前から柳条湖事件と呼ばれるようになりました。

 

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柳条湖事件発生後の関東軍の動き

 

関東軍は上で書いた通り満州地域の武装勢力(奉天軍閥と呼ばれていました)の仕業だと断定しこの武装勢力が拠点としている近くの北大営という施設を攻撃しました。北大営は武装勢力に所属する兵員たちが集団で生活している場所でした。また関東軍は奉天(現在の瀋陽)、長春(ちょうしゅん)、営口(えいこう)といった満州地域の大きな都市を制圧しました。長春は現在の吉林省の中心都市です。営口は遼寧省の中にある都市で、瀋陽よりも朝鮮半島側にあり遼東半島の付け根あたりにある都市です。また関東軍は朝鮮半島に駐屯している日本軍が関東軍を支援する体制を作るため現在の吉林省の地域にさらに多くの関東軍の兵員を派遣しました。この派兵はこの地域で生活している日本人を保護するためだと説明されたようです。その後昭和天皇や日本軍中央の許可を得ることも無く朝鮮半島から吉林へ兵は派遣されました。朝鮮に駐留していた日本軍が合流し関東軍の指揮下に入って関東軍は制圧する地域を更に北部へ拡大させていきました。1932年の2月には現在の黒竜江省(吉林省の北にある省です)の中心都市、ハルビンを占領することとなります。

 

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日本政府(若槻礼次郎内閣)の対応

 

当時内閣を担当していたのは若槻礼次郎さんでした。若槻さんは浜口雄幸元首相が東京駅で襲撃を受け大怪我を負い1931年4月に首相を辞職した後、首相職を引き受けています。事件が発生したのは9月18日の夜でしたがその夜のうちに事件の発生は現地の外交官から日本政府へ電報で報告されていたようです。19日には急いで若槻内閣の大臣たちが会議を開いています。若槻首相は陸軍大臣に関東軍の軍事行動理由に偽りがないか確認したところ陸軍大臣は正当な自衛行為だと応じたそうです。この会議の中で陸軍側からの説明後、幣原喜重郎外務大臣の事件に関する報告があったそうです。この報告内容は陸軍側の説明と異なっていたようで関東軍の行動が妥当なものだったのか疑念を持つ大臣もいました。この内閣の会議では関東軍の軍事行動を拡大させないようにするべきだという意見でまとまったようです。また事態を拡大させないため、朝鮮半島に駐留していた日本軍を動かさないようにさせたかった若槻首相は天皇の側近に働きかけたそうです。軍を動かすかどうかについては内閣が口を出せず、天皇や陸軍の作戦を決める参謀本部という部署が決める権限を持っていたため若槻首相は天皇の重臣に要請したわけです。しかし朝鮮半島の軍は天皇や日本陸軍中央の許可を得ずに勝手に朝鮮半島の境界を越え満州地域に入り関東軍と合流してしまいました。若槻首相を始め大臣たちは勝手な行動を問題視したものの結果的には朝鮮に駐留していた軍隊を派遣する必要性が全くないとも言い切れない事情から内閣が朝鮮半島の軍が勝手に満州に入ったことを事後承認することとなってしまいました。

 

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前回の記事に続き今回も柳条湖事件に関する話を取りあげています。今回は事件後の関東軍の動きと日本政府側の動きを調べてみました。単なる鉄道の爆破事件ではなく満州を占領するため関東軍が起こした自作自演の出来事ですし、日本政府はこの時軍に対してどんな態度をとったのかということは重要な点だと思ったため調べてみました。事件発生数日のうちに関東軍は南満州の大きな都市を占領することに成功していますがこれは相当素早いことなんでしょうかね。張学良の軍隊が強い抵抗を示したという話を調べている中では目にしませんでした。事件発生後から半年以内に満州北部の重要都市ハルビンを占領することに成功したというので、関東軍の幹部は自分たちの行為にますます自信をつけたことでしょう。事件の真相を知らない多くの日本国民も「鉄道を爆破した悪い中国軍をやっつけた。日本軍はすごい!!」と大喜びだったかもしれません。満蒙の危機が叫ばれていましたので尚更喜んだのではないでしょうか。こうなってしまうと勢いはなかなか止められないんでしょうかね。若槻首相も外相の報告を聞いて宮廷に働きかける等出来ることはやったのでしょうけれど、首相が望んだように軍を制御することは出来ませんでした。首相に軍関係の情報が正しく入っていなければ軍の思惑通りに政策判断をする結果になってしまうのかもしれません。内閣は朝鮮に駐留していた軍が満州に入ったことを事後承認しましたが、この判断に相当問題があったという指摘も多いようです。でも居留民保護が目的だと軍からまことしやかに説明されたら日本国民を守る責任が日本政府にある以上、許可せざるを得ないという気持ちもわからないではないなと思います。首相の事後承認以前の行動を知ると本音は事態不拡大が適切と考えていたでしょうから、決して喜んで朝鮮からの出兵を事後承認したわけではないのでしょう。大日本帝国憲法下で首相を担当するのは軍を指揮下に置けないという点で本当に大変ですね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

軍人の処罰について波紋を呼んだ話「田中義一内閣の張作霖爆殺事件への対応と昭和天皇の反応」はこちらです。

事件に関係した軍人の処罰が不徹底だった話「1931年に日本で起きた三月事件とは?大川周明についても」はこちらです。

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