9月の降伏文書調印と調印した日本の軍人、外務大臣について

9月2日におこなわれた降伏文書調印式

昭和二十年、西暦1945年の9月2日に日本国は第二次世界大戦で戦ったアメリカなど連合国との間で休戦協定を交わしました。8月14日には日本国が連合国側にポツダム宣言を受け入れるとスイスやスウェーデンに仲介してもらい通知してはいます。それ以降一部の国の軍隊との戦闘が一時期ありましたが9月2日の時点では戦いは停止されていました。休戦協定を連合国との間で交わす際作成されたのがここで言われている「降伏文書 こうふくぶんしょ」です。この降伏文書作成にあたり日本側の代表と連合国側の代表が署名することとなりますがこの署名を含む調印式が行われたのは軍艦の中でした。アメリカ海軍の「ミズーリ」という合衆国の州の名前を持った戦艦です。トルーマン大統領の出身州だったことが命名に関わっているのだとか。1944年から使われた軍艦で現在はハワイの真珠湾に記念として保存されています。北海道の室蘭がこの戦艦によって大戦末期に多くの砲撃を受け大変な被害を出していたそうです。降伏文書には日本軍が連合国側に無条件で降伏すること、連合国側は日本の軍人、民間人に対する敵対行為を終わらせること、日本の官庁職員、軍の職員は降伏実施のために連合国軍最高司令官の必要な命令を守ること、ポツダム宣言に書かれている内容を誠実におこなうこと、日本の支配下にある連合国軍の捕虜を解放することなどが書かれています(以上の内容は外務省が公開している降伏文書内容を参考としております)。この降伏文書調印と同じ日に降伏文書調印に関する詔書(詔書しょうしょというのは天皇の出される公文書のことです)が出されました。その詔書の中で連合国が日本政府や日本軍を動かす立場の大本営に対し連合国軍最高司令官の指示によって日本の陸軍、海軍に命令するよう要求していること、日本国民に対し連合国側に敵対行為をおこなうことをやめ、武装解除し降伏文書の内容、日本政府、大本営の命令することをしっかり守るようにといった内容の命令が述べられています(以上の内容は国立国会図書館が公開している降伏文書調印に関する詔書の内容を参考としています)。この降伏文書調印によりポツダム宣言を受け入れますよという日本側の意思を書面で確認したこととなります。

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日本側の署名者

日本側でこの降伏文書に署名をしたのはお一人ではなくお二人です。終戦直後に発足した東久邇宮内閣(ひがしくにのみやないかく)で外務大臣を担当されていた重光葵(しげみつまもる)さんと当時陸軍の中央であり作戦指示などを担当する部署、参謀本部の総長だった梅津美治郎(うめづよしじろう)さんです。重光さんは天皇や日本政府の命令で、梅津さんは日本軍の大本営からの命令で調印式に参加することとなっています。梅津さんは陸軍の方ですが日本軍を代表してということなんですね。重光さんは鈴木貫太郎内閣の前の内閣、小磯国昭内閣やその前の東条内閣でも外務大臣を担当されていました。小磯首相の中華民国蒋介石政権との終戦工作に反対していた方ですね。梅津さんは1944年から参謀総長を担当されていました。その前は満州地域に駐留していた日本軍である関東軍の司令官をされています。8月14日に昭和天皇の御聖断が出された後、陸軍内部でクーデターの動きがありましたが、梅津さんはそのようなクーデターの動きに強く反対されていました。連合国側は9カ国の代表が署名したそうです。アメリカ、イギリス、中華民国、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、オランダ、フランスといった国々です。

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今回は降伏文書調印を取りあげました。8月14日の御前会議もそうですが戦争を終わらせる象徴的な出来事ですし、わざわざ軍艦の上で調印したという個人的には違和感のある出来事でもあったため調べてみることにしました。この件を調べていて戦艦ミズーリが降伏文書調印式の時に停泊していた場所が、1858年に日米修好通商条約を結ぶにあたり調印する場所として利用した黒船が当時停泊していた場所と同じだったということを知りました。地上で調印式をやればいいものを、わざわざこのような江戸幕府開国当時を思い出させるような演出をしたアメリカの意図というのは何なのでしょうね。

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徹底抗戦の考えを持っていた日本軍もクーデター事件を除き、その後、上で書いたような政府や大本営の命令を守るようにという昭和天皇の御命令が書かれた詔書が出されたこともあって大きなトラブルなく武装解除が進んだようです。連合国側も頑強に抵抗し続けた日本軍が昭和天皇の命令に従う様子を見て日本皇室の権威の強さを改めて感じたのではないでしょうか。日本軍の軍人として強い誇りを持っていたであろう参謀総長の梅津さんにとって、軍代表として参加しなければならなかったとはいっても、この調印式は屈辱の場だったのだろうと個人的に勝手に想像しております。昭和十二年、西暦1937年に始まった中華民国蒋介石政権との戦闘が、誉れ高い大日本帝国の軍隊を武装解除させてしまう結果になることなど戦闘当初に予想出来るものではないですよね。軍事的な強国(アメリカやイギリス)の反応を見誤るとその損失は計り知れないものになるということを感じさせられます。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。今回の記事ではTsushimahikariさんによる写真ACからの写真を利用させていただいています。

今回の記事でも名前を出したポツダム宣言の内容について触れている話「ポツダム宣言にある内容は簡単に言うと何だったのでしょう」はこちらです。

終戦をめぐる昭和天皇のお考えについて触れている話「終戦を決定付けた御前会議での昭和天皇の御発言の概要は」はこちらです。

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