朝鮮出兵で家康さんはなぜ半島に派遣されなかったのでしょう

家康さんはなぜ朝鮮出兵していないのでしょう

 

豊臣秀吉さんが日本国内を統治していた時代におこなわれた大規模な他国に対する軍事行動、朝鮮出兵。結果的には目立った効果もなく秀吉さんの死亡によって幕を引くことになりますが、その割には非常に多くの軍勢が朝鮮半島に派遣されました。最初の出兵である文禄の役では16万人近い兵員が国内から動員されていたようですし、二回目の出兵である慶長の役では多少規模が小さくなってはいるものの、それでも14万人以上の兵員が半島に派遣されました。このような人数を見てみても相当な数の武将が朝鮮出兵に関わっていた事がうかがえます。しかし秀吉さんとしては是非成果を出したかったであろうこの朝鮮出兵で日本の有力な勢力だった徳川勢が半島に兵を派遣していません。当時徳川家は関東に移動し250万石ほどの非常に広大な領地を治めることとなっていました。これ程の広大な領地の保有を認められていた大名は、当時の支配者だった豊臣秀吉さんくらいしかおられなかったでしょう。それくらい有力な勢力だった徳川家がどうして朝鮮出兵の時に兵を半島に派遣しなかったのでしょう。かつて領地であった東海地方から関東に移動してあまり期間も経過しておらず、新たな領地の統治が大変で出兵を免除された、国内の諸大名の役割分担があり、朝鮮出兵は関東の徳川勢の担当ではなかったから、朝鮮出兵で徳川勢に目立った手柄を立ててもらうわけにはいかなかったからなどといった複数の見方があるようです。

 

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領地を変えたばかり

 

これは私も義務教育の時代に聞いた記憶があった気がしますが、関東に移ったばかりで大変だったからというものです。徳川家はもともと東海地方、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河(みかわ)といった地域やその後獲得した甲斐(かい)、信濃(しなの)の一部といった合計150万石ほどの広い領地を自分の勢力下に置いていましたし、秀吉さんにもそれらの領地を保有することを認めてもらっていました。しかし秀吉さんは関東で非常に力を持っていた戦国大名、北条家を小田原征伐という有名な戦で倒した後、北条家が治めていたその関東の地域に徳川家を移動させることにします。天正18年、西暦1590年の話です。最初の朝鮮出兵、文禄の役が始まるのはそれから2年後の文禄元年、西暦1592年です。2年間をどう見るかで意見は分かれるかもしれませんが移って間もないと言えなくもありません。秀吉さんがこのタイミングで半島に出兵までさせるのは負担が大きすぎると考えるのは、それ程無理な話でもないような気はします。

 

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役割分担が違っていたから

 

文禄の役や慶長の役で実際に出兵している武将を確認すると大抵は九州地方、四国地方、中国地方、近畿地方を領地とする大名の軍勢となっています。徳川家も九州、佐賀の地にあった名護屋城までは朝鮮出兵の際に自分の勢力を引き連れて来ています。しかしその出兵の拠点となっていた土地で拠点の防衛にあたったり、名護屋城の整備をしたり、朝鮮出兵に利用する船を造ることに関わっていたようです。このように秀吉さんの考えで半島とどちらかと言えば近い地域に領地を持つ武将たちに実際の軍事攻撃を任せようという方針だったから家康さんは半島に出兵しなかったという見方があるようです。その代り家康さんは朝鮮出兵の前年、天正19年、西暦1591年に東北地方の様々な場所で発生した秀吉さんの政治に対する反乱行為を鎮圧するための軍事行動に従事しています。東側の大名にはそのような仕事を任せようと秀吉さんは考えていたということなのかもしれません。

 

手柄を立てて欲しくなかったから

 

朝鮮出兵以前の時点で既に関東の250万石もの広大な領地を得ている徳川家が朝鮮出兵で大きな手柄を立てた場合、更に秀吉さんは徳川家に褒美として相応の領地を加えて与えてあげなければならなくなります。徳川に匹敵するような有力大名が他にあまりいない状況で更に徳川家が強大になるのは秀吉さんとしても日本を治めるうえであまり好ましい状況ではないと考えても不思議ではありません。その代り徳川家に及ばないとしてもかなり広い領地を保有している毛利家や宇喜多家といった勢力は出兵に参加しています。朝鮮出兵が成功したとして、毛利家や宇喜多家などにさらに領地を与えたとしても徳川家に拮抗する勢力になる程度だから構わないと秀吉さんは考えたのかもしれません。そういった見方もあるようです。徳川が貢献したとしても名護屋城の周辺の警護や名護屋城の整備といった内容であれば新たに領地を与えなくても済むと秀吉さんも考えてそれなりの仕事をさせるにとどめたという見方も出来るように思います。

 

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今回は家康さんがどうして朝鮮出兵に加わらなかったのかについて一部取りあげました。出兵には参加していないものの、ちゃんと軍勢を引き連れて九州の佐賀の拠点までは行っていたということを今回初めて知りました。朝鮮侵攻のための事業にはそれなりに参加していたということになります。国の中で相当有力な勢力が出兵に参加していなかったというのは確かに不自然な気がしますし一般的にも疑問に感じる方々が結構おられるようだったのでこのようなテーマで記事を作ってみました。関東の領地管理で忙しかったからという理由で出兵を免除されたというのであればわざわざ九州まで1万5000人規模の軍勢を徳川が引き連れていき名護屋城の整備をしたりするというのは何か辻褄が合わないような気もします。ただ工事や警護といった仕事と実際に半島で命のやり取りをおこなう戦をするというのでは大変さで言えば天と地程の違いがあるといった考え方も出来るかもしれません。個人的には地域による役割分担だったといった理由や徳川に褒美としてさらに領地を与える状況にしたくなかったからといった指摘のほうに説得力があるような感じがしました。いずれにしても「そうだったのだろう」、「そうだったのではないか」といった憶測の内容ではあります。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

豊臣家の経済基盤の変化について触れている話「関ヶ原の戦いのあと豊臣家の領地はどうなったのでしょう」はこちらです。

秀吉さんの死後に発生する対立について触れている話「石田三成さんと徳川家康さんの対立理由は何だったのでしょう」はこちらです。

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