第3回衆議院議員総選挙から第4回衆議院議員総選挙への過程

第3回衆議院議員総選挙が行われた理由

 

第3回総選挙が行われた理由は第2次伊藤博文内閣が衆議院を解散するという手段に出たためです。当時政府は他国と結んでいた条約内容を変更するための交渉をしていたのですが、交渉の中で他国から要求されていた内容に解散される前の衆議院から大変な反発がありました。条約内容は今までのままにするという考えを衆議院の総意とするための議案が、条約改正反対派から出されます。

そのまま行けば衆議院で賛成多数となり議会の一つである衆議院が条約改正交渉に反対という意思表示をすることとなります。交渉中の政府としては自分たちの行為の邪魔をされてはたまりませんので、衆議院で条約内容をそのままにするという議案を通すわけにはいきませんでした。伊藤内閣は議会を複数回停会するといった強引な方法を用いて議案が衆議院を通過する前に解散して議案をうやむやにしたわけです。

 

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第3回衆議院議員総選挙の結果

 

この選挙は西暦1894年(明治27年)3月に行われました。第1次松方正義内閣に比べ選挙干渉の程度が弱まった総選挙となったそうです。ただ全くなかったわけではありませんでした。選挙干渉対象は条約改正交渉に反対な政党や会派に関わる候補者でしたので、立憲改進党や国民協会といった勢力に対しては治安機関からの干渉が加えられたそうです。嫌がらせということでしょうかね。それに対し条約改正に反対の立場を取らなかった立憲自由党は選挙干渉の対象から外れました。

立憲自由党の議席は第2回の総選挙では94議席でしたが第3回では120議席と大幅に議席数を殖やしました。

立憲改進党は第2回総選挙では38議席となっていましたが第3回では60議席となり、この政党も議席数を増やしています。この政党は条約改正反対の立場で選挙干渉を受けたそうですが、第2回総選挙当時の選挙干渉と比べ干渉の程度が穏便だったそうなのでその影響で議席が増加したという指摘があります。

この選挙の結果条約改正については政府と歩調を合わせている立憲自由党も条約改正に反対な政府と鋭く対立する立憲改進党や国民協会などの勢力も衆議院の議席の過半数を超えることはありませんでした。

 

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第3回衆議院議員総選挙後の議会

 

第3回総選挙後第6議会が開かれました。条約改正賛成の立憲自由党と条約改正反対の立憲改進党、国民協会らの勢力が互いの議案を否決しあう展開となります。その点は政府にとっては大した影響もありませんでしたが、その中で自由党側も条約改正反対派である勢力も賛成にまわる議員が多数派となる議案が本会議を通過してしまいました。

この議案は政府の予算内容をしっかり見直し政府支出額の削減を徹底することを要求したり内閣不信任の内容や条約改正に反対する内容も盛り込まれた伊藤内閣にとっては受け入れがたいものでした。自由党は条約改正に賛成でしたが、政府支出の削減には賛成なのでこの議案に賛成する自由党の議員が多数出たようです。

内閣不信任という内容も含まれた議案が衆議院を通過してしまったため、有権者に信を問わざるを得なくなった伊藤内閣は第3回総選挙をしたばかりだというのに、西暦1894年(明治27年)6月また衆議院を解散することになってしまいました。こうして第4回衆議院議員総選挙が行われることとなります。第4回総選挙は9月に行われる予定となっていました。しかしここで解散された6月から選挙が行われた9月までの間に大きな出来事が起きます。日本は清国との戦争に突入してしまうのです。

 

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第4回衆議院議員総選挙の結果

 

戦争が始まってしまったことは各陣営の主張に相当影響したようです。政府に反対の立場をとっていた立憲改進党も国民協会も一転して戦争遂行のため政府を支持することとなり、立憲自由党も元々政府寄りな立場でしたから、各勢力の争う論点がはっきりしない選挙となったようです。

立憲自由党は120議席から107議席、政府に反対の立場であった立憲改進党も60議席から49議席と少し議席を減らしました。国民協会も35議席から32議席と少し議席を減らしています。このように政党の議席が少し減っています。反対に無所属の議員が34議席から64議席に増えました。

どこの政党も議席を少し減らすという結果になり、結局衆議院の勢力図が大きく変化するようなことはありませんでした。

 

最近は朝鮮半島の動きを扱っていましたが今回は久しぶりに日本の初期議会の動きを取りあげてみました。日清戦争前の議会の動きについては第5議会中に第2次伊藤内閣が衆議院を解散するところまでしか触れていませんでした。

政府を支持する勢力が議会の多数を占めない場合、政権運営は大変不安定になるということを今回の記事を作っていて感じました。第6議会が始まってすぐにまた解散するような事態に陥ってしまうのですから。日清戦争が起きずに第4回総選挙の結果も第3回総選挙の結果と大差がなかったとしたら伊藤内閣は退陣していたのでしょうかね。内閣不信任案が盛り込まれた議案が衆議院を通ったことで伊藤内閣が解散をし、選挙をした結果衆議院の結果が大して変わらない勢力図なら伊藤内閣は否定されたということになるのではないでしょうか。

日清戦争はそのような状況を一変させる結果となりました。この出来事で伊藤内閣に対する議会からの反発は弱まることとなります。戦争によって議会内の対立は棚上げされ、それぞれの勢力が一つにまとまり政府を支持するという今回のような動きは議会が常識的に運営されているどこの国家でも見られる光景なのでしょうかね。国が戦争やっているのに国内で仲違いしている場合ではないだろう、ということでしょうか。

こういう動きを利用するために戦争しようとする政治指導者がいたりすると、国民は本当に迷惑するでしょうね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

衆院解散関連記事「日清戦争後の第2次伊藤内閣の動きと第2次松方内閣について」はこちらです。

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