日米修好通商条約を結んだ人と開港した場所、下田の扱いについて

条約を結んだ人は

 

日米修好通商条約を結んだ人物ですが、日本側は井上清直(いのうえきよなお)さんという方と岩瀬忠震(いわせただなり)さんという方のお二人でした。アメリカ側は総領事のタウンゼント・ハリスさんです。

井上清直さんは条約を結ぶための交渉を行った時は下田奉行という役職に就いていた幕府のお役人でした。下田奉行というのは開港した下田の警備や船の見張り、船舶の検査などを行う立場だったそうです。お侍さんの位置づけとしては元々御家人だったそうですが出世して条約交渉時は旗本でした。旗本というのは徳川家の家臣であり石高(収入の多さ)が一万石未満で将軍の出席する場に参加できる高い階級だったそうです。

岩瀬忠震さんは条約交渉時、「目付」という役職につかれていた方でした。「目付」というのは将軍家の家臣である旗本や御家人といった人たち、役人等がちゃんと役目を果たしているかチェックする立場のようです。非常に学問のできる優秀な方だったそうです。

井上さんや岩瀬さんは条約が結ばれた後外交を担当する江戸幕府の役職、外国奉行に任命されました。

アメリカ側のタウンゼント・ハリスさんは日米和親条約が結ばれた後日本にやってきたアメリカの外交官、総領事で、貿易に関する条約を結ぶよう日本側に強く求めてきた人物でした。ハリスさんにアメリカ政府から日本に条約を結ばせるよう指示が出ていたわけです。

 

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日米修好通商条約によって開港された場所

 

日米和親条約によって下田と箱館が開港されていましたがこの条約によってさらに神奈川、長崎、新潟、兵庫、を米国に対して新たに開港する事となりました。

神奈川は当時の神奈川と開港した神奈川は異なる場所だったのだそうです。開港した「神奈川」の場所は本当のところ「横浜」でした。元々の神奈川という場所は開港するのに都合が悪かったそうです。横浜を神奈川と名称変更しその場所を開港しました。

 

下田の取り扱い

 

日米和親条約によって開港された有名な場所の下田ですが、神奈川を開港した後に米国向けの港として使わないこととなりました。神奈川一か所で十分という事で外国との交流のための港としては下田の役目は終わったという判断だったようです。

 

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先ほどの項目「条約を結んだ人」では触れませんでしたが、条約を結ぶことを推進した人物は江戸幕府の大老、井伊直弼(なおすけ)公でした。老中首座(老中のトップ)の堀田正睦(まさよし)公は条約を結ぶために奔走しましたが、孝明天皇からの許可を得られず、堀田さん主導では通商条約を結ぶことが出来ませんでした。井伊さんが大老になった後に堀田さんは条約問題をうまく解決できなかったことなどで老中を辞められています。大老というのは将軍を支える臨時の役職で、老中よりも偉く、強い権限を持っていました。

井伊さんは孝明天皇からの許可を得ていない状態でも条約を結ぶことを決め、この日米修好通商条約が締結されました。そのことで井伊さんら幕府に対する反発が日本国内で生じることとなります。異国を武力で日本から追い払う事を主張する攘夷派の人たちの反発です。

井伊直弼公についてはまた別の機会に取りあげさせていただきたいと思います。

 

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元々開港している北の箱館に加え、新たに開港した場所を考えると南の長崎、日本海側の新潟、関東の神奈川、関西の兵庫と偏りのない場所を開港したなぁと感じます。日本近海を移動するアメリカ船の利便性を考えるとこうなるのですね。

アメリカ側の条約を結んだ人、ハリスさんは条約交渉の相手である井上さんや岩瀬さんたちのことを非常に高く評価していたのだそうです。彼らのような人物が交渉の当事者となったことは日本にとって幸福な事であった、というような感想を残されているそうです。通商条約締結に関してはイギリス・フランスの脅威が理由となったそうですし、交渉次第ではアメリカに軍事侵攻の口実を与えていたのかもしれません。通商条約問題を無難にまとめたということで一日本国民として井上さんや岩瀬さんには大変な恩があると言えるのかも、そんな気がしました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

日米通商条約関連記事「日米修好通商条約の内容と不平等条約と言われる理由とは」はこちらです。

対米開港関連記事「日米和親条約が結ばれた年号と条約を結んだ人、条約の内容について」はこちらです。

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