堀田正睦さんとは?他ハリス氏からの忠告と孝明天皇の選択について

堀田正睦さんとは

 

堀田正睦さんは佐倉藩のお殿さま(大名)でした。「ほったまさよし」さんと言います。佐倉藩は今の千葉県佐倉市周辺に存在していた藩だそうで、石高は11万石だったという話があります。元々の名前は正篤という字を使っていましたが、13代将軍の奥さんとして篤姫さんという方が島津家から来られたため、同じ字を使う事を遠慮し「篤」を「睦」に変更したそうです。

幕府からの任命によって1830年代後半から老中として活動されるようになりました。ペリー来航時に老中のトップ、老中首座だったことで有名な阿部正弘さんが1855年に堀田さんにその立場を譲っています。堀田さんが老中の中で一番偉い人となりました。しかしその立場は1858年までしか続きません。井伊直弼さんが江戸幕府の大老になって堀田さんは老中を辞めさせられたようです。(「大老」というのはいつも誰かがやっている役職ではないそうなのですが、老中より立場が上なのだそうです。)

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その後堀田さんは藩に戻って隠居されますが、井伊直弼さんが暗殺された後に幕府や朝廷から謹慎処分となってしまいます。そして1864年に謹慎処分のままお亡くなりになりました。55歳だったそうです。(念のため捕捉しますが堀田さんは井伊直弼さんの暗殺に関係などしてはいません。)

立場の経過は以上のようなものになりますが、その間日本は大変困難な時代でありアメリカとの間で通商条約を結ぶかどうかで堀田さんは非常に難しい立場に立たされました。

 

総領事ハリス氏からの働きかけ

 

日米和親条約を結んだ日本にはアメリカの外交官である領事が駐在していました。ハリスさんは当時日本に初めて駐在した領事です。彼はアメリカ政府から日本と通商条約を結ぶよう指示されていました。

通商条約を結んでアメリカと盛んに交易をおこなう事を日本はあまり望んでおらず、アメリカ政府の希望通りには話がなかなか進みませんでした。

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アメリカは自国の軍艦を下田に入港させ江戸城に入ることを幕府に許可させて、直接将軍にアメリカからの国書を渡すという強引なこともしていたようです。またハリス氏は幕府に清とイギリス、フランス連合軍との間で行われている「アロー戦争」を持ち出して、日本がアメリカと早く通商条約を結ばないとイギリスやフランスが日本を侵略し日本にとって非常に不利な内容の通商条約を無理矢理結ばなければならなくなってしまいますよ、と忠告?したようです。

そうなってはもちろん困りますから幕府もどのような通商条約にするか内容を決めるため担当者を立ててアメリカ側と交渉しましたし、天皇に許可をいただくために堀田さんが直接京都に行き朝廷の関係者に条約に関する説明もしました。

 

孝明天皇の判断

 

しかし堀田さんの努力もむなしく、孝明天皇は通商条約を結ぶことは許可できないと判断されました。通商条約を結びアメリカと幅広く貿易することによって日本の制度が大きく変化してしまい災いが起きる事を心配されての判断だったそうです。

孝明天皇の判断には多数の公家の方たちによる条約締結反対の強い意思表示(座り込みをされたそうです)や条約に反対する他の藩が暗躍したことが影響したという話もあるそうです。

 

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アメリカとの貿易に関する条約を結ぶ前にどのようないきさつがあったのか知りたくて堀田正睦公やハリス氏を手掛かりにして調べてみました。条約締結の裏にイギリスやフランスといった強国の脅威があったことを確認することができました。

本当はこのような条約など作りたくなかった幕府が条約締結に傾いたのは日本を侵略されないようにするためだった、というのは動機として非常にわかりやすいというか無理もない話だなと思います。

清国のように非常に不利な内容を無理矢理のまされる話になったら大変ですからね。堀田さんのような立場の人であれば本当に心配だったことでしょう。堀田さんが望まれた通りには条約締結に結びつかず、その点は気の毒に感じました。

しかし条約の締結によって日本社会が混乱するというのは、孝明天皇が心配されていた通りだったようです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

井伊直弼公関連記事「安政の大獄とは?断行された理由と西郷隆盛の関わりついて」はこちらです。

日米通商条約関連記事「日米修好通商条約の内容と不平等条約と言われる理由とは」はこちらです。

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