幕末の土佐藩の立場はどのようなものだったのでしょう

幕末の土佐藩の立場

 

江戸時代末期江戸幕府と対立していた藩として有名なのは長州藩(萩藩はぎはん)かと思います。朝廷内での影響力を強めよう、回復させようとして京都の天皇の御所近辺で幕府側の会津藩、薩摩藩などと戦闘したわけですし、朝廷の敵と判断され幕府側が大軍を中国地方に派遣し長州に圧力をかけ(第1次長州征討は大きな戦闘になりませんでした)、その後慶応2年、西暦1866年には幕府側と長州藩は実際に戦闘を繰り広げました。長州藩が幕府の意向に従わない勢力だということはこういった出来事からもわかりますが、鳥羽・伏見の戦い以降、戊辰戦争の時に長州藩や薩摩藩と同じ立場で戦うことになった土佐藩というのは幕末、江戸時代末期にはどのような立場の勢力だったのでしょう。土佐藩は幕府と朝廷が協力して他国からの脅威にさらされている困難な状況を乗り切ろうという考えである「公武合体(こうぶがったい)」を支持する勢力でした。また上でも触れた1866年の幕府側と長州藩の戦闘で幕府側が長州藩に敗れた後も長州藩や薩摩藩に幕府が武力で倒されることの無いよう動きました。朝廷が政治をおこなう立場になった後も土佐藩は幕府勢力が政治に関与する仕組みにしようとします。幕府との関係で言えば土佐藩は倒幕、幕府を倒すことを希望するような勢力ではそもそもなかったようです。しかし土佐藩が薩摩藩と結んでいた約束を理由に家臣が旧幕府を倒す軍勢に参加し、藩主もそれをやむを得ず認めたということで長州藩、薩摩藩、佐賀藩などと連携し旧幕府勢力と実際に戦ってしまう結果となります。

 

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土佐藩山内家

 

徳川家康さんが国の政治を仕切る時代に入り山内一豊さんは関ヶ原の戦いの頃、徳川勢に協力したこともあって東海地方に6万石の領地を持っていた立場からその後約20万石もの規模である四国・土佐藩の領主となることを幕府から認めてもらうことが出来ました。幕府に所有する領地を増やしてもらった、領地の規模で言えば幕府に厚遇してもらった藩ということになります。そのため幕末に土佐藩藩主となり、藩主を引退した後も藩の政治に強い影響力を持っていた山内容堂(豊信とよしげさんともいいます)さんは幕府に対して恩を感じる立場だったわけです。そのため幕府が弱体化しても幕府を倒すという立場には長らく立っていませんでした。

 

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大政奉還

 

1866年に幕府側が長州藩と戦い、負けてしまうことで江戸幕府の権威は失墜してしまうことになりましたが、土佐藩はその幕府を見限って長州藩や薩摩藩に積極的に協力して幕府を倒そうとしたわけではありませんでした。長州藩や薩摩藩に対し幕府を攻撃するような口実を与えないために、幕府に国の政治をおこなう権限を朝廷にお返しする大政奉還をするよう土佐藩は提案しています。一旦朝廷に幕府が持っていた政治をおこなう権限を返上し、その後まだまだ幕府は国内において有力な勢力ですから実際の政治をおこなうにあたって旧幕府の相応の影響力を諸勢力との協議の中で発揮させればいいと山内容堂さんは目論んでいたといった指摘もあるようです。実際大政奉還後に朝廷内での会議で容堂さんは徳川家が所有する領地の相当な割合を朝廷に返却するよう新政府側が求めたり徳川家が朝廷の政治をおこなう会議から締め出されているのはおかしいと異議を唱えていたようです。

 

鳥羽・伏見の戦い

 

しかし鳥羽・伏見の戦いが発生してから薩摩藩と軍事上の約束を結んでいた土佐藩の家臣たちはその約束に従い藩の兵を戦いに新政府側の軍として参加させる動きに出ます。容堂さんはこの動きに消極的だったようですが結果的には認めることとなり、土佐藩の勢力は新政府側の立場で戊辰戦争を戦うこととなりました。

 

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今回は幕末の土佐藩の動きについて一部取りあげました。幕末の土佐藩の藩主に関係した記事を作ろうと思ったのですが当時の土佐藩の姿勢に関する関心が強いようでしたのでこのようなテーマの記事にしています。大名の分類として、山内家は外様大名ということなのでしょうが領地を大きく増やしてもらったということもあり戊辰戦争直前まで土佐藩が幕府を擁護しようとした動きはいろいろあることを改めて確認しました。結果的には大政奉還後、倒幕派の有力な公家や薩長の有力者の意見が政治の主導権を握り土佐藩も旧幕府側と戦うことになってしまいます。当時は藩主ではありませんでしたが藩内で最も政治的な発言力があった容堂さんとしては幕府と戦うことになってしまったのですから不本意な結果だったことでしょう。鳥羽・伏見の戦いが無く、武力衝突の無い時期が続いていたら新政府側も幕府に侵攻する具体的な理由もなく容堂さんの望んだような幕府勢力も関与した新政府組織が出来ていたんでしょうか。江戸で様々な挑発行為があり、それに激高して幕府側が新政府側の勢力に対し兵を動かしたのが鳥羽・伏見の戦いのきっかけでした。薩摩藩などの挑発によって旧幕府勢力を権力から排除することにまんまと成功したことになります。制御するのは難しいのでしょうが感情で戦端を開くとあまりいいことにならないものなのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

大政奉還後の政治の在り方を議論した会議について触れている話「小御所会議とは?会議の場所や決定された内容についても」はこちらです。

江戸時代の殿様たちの権限が奪われていく政策について触れている話「版籍奉還とは?意味や目的について調べてみました。」はこちらです。

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