ソ連軍を想定して関東軍が満州でおこなった関特演とは

関特演とは

 

関特演(かんとくえん)とは関東軍特種(大)演習(かんとうぐんとくしゅ(だい)えんしゅう)の略称です。清国が存在していた時から日本国が租借、借り続け自国領のように扱っていた中国大陸の遼東半島の先端領域と南満州鉄道の付属地を合わせた領域を日本は関東州(かんとうしゅう)と呼んでいました。そしてこの関東州の防衛にあたっていた日本から派遣されている日本軍を関東軍(かんとうぐん)と呼んでいました。関東軍特種演習の関東軍というのはそのような日本の軍隊です。1932年に満州国が建国されてからは、満州国の防衛も関東軍が相当の割合を担当するようになっていました。満州国とソビエト連邦との間の国境紛争である1938年7月に発生した張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)や満州国とモンゴル人民共和国との間の国境紛争である1939年の5月に発生したノモンハン事件で満州側として中心となって戦ったのはこの関東軍でした。今回取りあげている関特演という関東軍の演習は西暦1941年(昭和16年)7月に満州国の北部でおこなわれています。結果としては翌月、8月に演習は中止されました。演習がおこなわれるにあたり満州国北部には日本軍の大勢の兵員が派遣され大量の物資が運ばれています。演習がおこなわれる以前関東軍の兵員は30万人を超えるほどの数であり、これでも相当な数の兵員ではありますが、関特演がおこなわれるにあたって追加して派遣された兵員も合わせると約70万人もの数に膨れ上がったそうです。倍以上の規模です。

 

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日ソ中立条約

 

関特演がおこなわれた1941年7月という時期には既に日ソ中立条約が有効となっていました。この条約の効力が発生した、有効となったのは1941年の4月25日だそうです。日ソ中立条約は日本国とソビエト社会主義共和国連邦が平和友好関係を維持してお互いの領土の安全を保ち、侵攻しないことや他国との戦争になった時お互いは中立を守ることなどを約束するといった内容が盛り込まれている条約でした。条約締結時、この条約が有効な期間は5年間とされています。廃棄する場合の通告や有効期間の自動延長に関しても定められていました。有効期間が1941年の4月25日から5年間ですので1941年の7月は当然条約の有効な期間内ということになります。

 

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関特演が実施された意味

 

1941年の7月上旬に昭和天皇も臨席された会議、御前会議が開かれ、この会議で「情勢ノ推移二伴フ帝国国策要綱」が確認され当時の日本国の国策、国の方針が決められました。この国策要綱で方針とされている物の中の一つに支那事変の処理を進めて日本国の生存、防衛を確かなものにするため南方に進出し、国際情勢次第によっては北方問題を解決するといった内容があります。この国際情勢次第によっては北方問題を解決するという箇所は何を意味しているかと言いますと、ソビエト連邦が弱体化した場合、日本はソビエト連邦を攻撃しソ連のしかるべき領土を制圧して日本国、満州国に対するソビエト連邦の脅威を排除するということです。御前会議が開かれていた時期には既にドイツとソ連の間で戦争が起きていました。独ソ戦争のことですが、この戦争は1941年の6月に始まっています。ドイツとの戦争によってソ連が相当負けることも当時は考えられたため、このような内容が方針の中に入れられたようです。満州北部に大量の兵員を派遣しおこなわれた関特演というのはこの7月上旬に決定された国策に従って状況によってはソ連を攻撃するための準備をするためにおこなわれた、そのような意味を持つ演習でした。ただしドイツとの戦争をおこなってもソ連の軍事力が壊滅する様子は無かったことから日本によるソ連攻撃は実行されませんでした。そのため関特演がその後中止されることとなります。

 

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今回は関特演について取りあげてみました。この出来事は対ソ連戦争の準備行動だったわけですし、日ソ中立条約が有効な期間にもかかわらず、場合によっては対ソ戦争をおこなうと日本国の方針の中に入れていたという事実も重要な話だと思ったので調べてみることにしました。過去の日本国の姿勢を批判することが動機でこの件を取りあげたということとは違って、状況によって国家というものは他国との条約、他国との約束を破ってしまうことがあるのだということに注目したかったのです。現実に日ソ中立条約を破ったのはソビエト連邦ですしね。1945年の8月に日ソ中立条約が有効期限内であったにもかかわらずソ連は日本に対し宣戦布告しました。日本がソ連のこの行動をとやかく言う資格は無いよという指摘があり、それにも一理あるかもしれませんが、日本は準備をしたものの実際に攻めてはいません。1941年の6月に始まったと上で書いた独ソ戦争もそうです。ドイツとソ連は1939年の8月に不可侵条約、お互いの国を攻めないようにしましょうという条約を結んでいたのです。でも2年後には条約を破って攻撃してしまうんですよね。こういう事実を目にすると条約というのは平時には非常に信頼性の高いもののように感じられますが、一旦世界が混乱すると必ずしも各国が絶対守るとは言えない。そういう印象が個人的には強くなりました。条約が破られてしまうような場合を想定していないと、いざそうなった時、大勢の自国民を守れないのかもしれませんから、国には平和な時から仮にそうなった場合の対策を立てておいてもらいたいものです。もちろん今後日本国が他国との条約(特に安全保障関係の条約)を破るなどという不名誉なことを決してやって欲しくないとも思いました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

話に出てくる条約について触れている記事「1941年締結の日ソ中立条約とは?締結した理由についても」はこちらです。

ソ連との戦闘を主張した人が更迭される出来事に触れている話「松岡洋右更迭が目的だった第2次近衛文麿内閣の総辞職とは?」はこちらです。

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