ポーツマス条約調印時に起きた日比谷焼打ち事件とは?原因についても
日比谷焼打ち事件とは
西暦1905年(明治38年)に発生した出来事です。東京にある日比谷公園で行われた集会をきっかけに、集会に参加した人々が暴動を起こしました。この集会はポーツマス条約が調印された時に行われています。
この暴動で当時の治安機関に関係した施設(警察署や派出所など)が多数破壊、焼打ちされています。他にも治安行政を担当する大臣である内務大臣の官邸や当時の内閣を支持していた新聞社の国民新聞、多数のキリスト教関連施設、電車も破壊される結果となりました。
この民衆の動きに対応することが非常に困難だったため政府は東京などに戒厳令を出し、事態の鎮静化を図りました。戒厳令ということで軍も出動しています。この東京の出来事は他の都市、横浜や神戸にも波及し、それらの場所でも暴動が起こったそうです。
この騒ぎが原因で17名の方が犠牲となり負傷した人は約2000人もいたそうです。拘束された人たちも数千人出る結果となりました。
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日比谷焼打ち事件の原因は
日露戦争の講和条約である、ポーツマス条約(日露講和条約とも言います)の内容を日本国民が知り国民が期待していた内容とは全く異なっていたため日本政府に対し怒り、日比谷での集会、暴動に至りました。
日露戦争が行われている間、国民は戦争の様子、情報を身近な新聞を通し手に入れていました。新聞には日本側が度重なる戦闘で大勝利しているという大変景気のいい内容が書かれていたのだそうです。新聞内容を大抵の国民は真に受けますので、「そんなに勝っているのだったらロシアからたくさんの賠償金や領土を勝ちとることが出来るだろう」と大変期待していたわけです。
しかしアメリカの東海岸の都市ポーツマスで行われている講和会議の情報が伝わり条約内容が明るみになると賠償金もとれないしアジア大陸の新たな領地も獲得できない、獲得できた領地は樺太のしかも南半分だけ。他は鉄道や鉄道に所属する権利、漁業権といった、期待していた国民からしてみれば簡単に言うと、パッとしない内容でした。
「勝ちまくっていたはずじゃないか。」期待していた内容と現実の内容との間で大きな開きがあるため、当時の日本国民は大変落胆したのだそうです。怒りの矛先がそのような条約内容で妥協した日本政府に向けられました。集会ではこのような内容の講和条約を結ぶな、戦争を継続し大きな戦果を挙げた上で日本にとって有利な条件で改めて講和を結べといった内容が主張されました。
先ほどの項目でキリスト教関係施設が破壊されたと書きましたが、ロシアに関係の深いロシア正教関係施設だったり、多くの日本国民にとって腹立たしかった講和条約の仲介を行ったアメリカ合衆国に対する怒りから、アメリカ人が宣教師として活動している教会が狙われる結果となったそうです。
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今回は日比谷焼打ち事件を取りあげてみました。戦争によって国民がどのように振り回されたのかを知るうえで大変重要な出来事なのではないかと思います。当時の政府のマスコミに対する締め付けで主要な新聞は日本が大勝ちしているという内容を連日紙面に並べ大いに国民を煽ったのだそうです。この事件は政府の報道規制と国民を煽る記事を書き続けたマスコミがそもそもの原因を作っていたと言えるようにも思います。
実際のところは日本海海戦では確かに大勝ちしたものの、陸上での戦闘では辛くも勝ったというのが現実で、奉天からロシア軍を追い出しただけでロシア軍を壊滅させることなど出来ませんでした。それでも莫大な戦費を既に使用し多数の兵員も犠牲となりこれ以上の戦争継続など困難な状況でした。この時点で講和を結ぶことが出来て本当に良かったと政府関係者は大いに喜んだことでしょう。本格的にロシアが残存する陸軍を東アジアに投入してきたら日本軍は負けていたかもしれないのです。
しかしそのような日本政府の台所事情をありのまま日本国民にさらせば当然ロシア側にも伝わり、「日本は何とか戦争を続けていられる状態だから、長期戦に持ち込めば勝てるぞ。」と思わせてしまい、早期に講和が結べなくなってしまいます。政府には事実をそのまま公表出来ない苦しい状況がありました。
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日本政府は日比谷焼打ち事件のような痛い目に遭っているものの、第二次世界大戦の時でもやはり政府発表の内容やマスコミの戦争中の報道内容は調子のよいことばかりだったんじゃなかったでしょうか。今回のような暴動を起こさないよう国民を戦争中に煽らないようにするというのは、政府にとっては無理な話なのでしょうか。一度火が付くと多くの国民の熱狂というのは大変恐ろしい結果を招くことになるのだな、と今回の出来事を調べていて感じました。それと戦争中のマスコミの論調というのは実は全然あてにならないものなのかもしれませんね。これは明治時代に限った話ではないように思います。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関連はございません。ご了承ください。
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