禁門の変とは?禁門の変と西郷隆盛や桂小五郎の関わりも

「禁門の変」とは何なのでしょうか

 

禁門の変(きんもんのへん)というのは西暦1864年(元治元年)の旧暦で7月に京都で発生した武力衝突事件のことです。1863年(文久3年)の「八月十八日の政変」によって京都御所(天皇の住んでおられた場所)の一部を警護するお役目を辞めさせられた長州藩勢力は京都にいる大義名分がなくなり長州にくだりました。

長州の影響力を再び京都で強めることを目的として攘夷派勢力は活動をその後も続けていましたが、1864年の7月(元治元年旧暦で6月)に池田屋事件によってリーダー格の人材を多数失いました。

このような事態となり長州藩は兵員を京都に派遣しました。長州藩勢力は京都入りし朝廷へ長州藩を許して以前のように朝廷の為に活動することを許可してもらいたいと要望しようとしたのです。それに対し他の藩の関係者は長州勢力が京都に入ることを許可しないよう朝廷にはたらきかけました。

朝廷内部つまり皇族の方たち、公家の方たちには様々な意見があったようでどのように対処すべきか議論になったようですが、孝明天皇から長州勢力を討つよう命令が出たことで朝廷側の姿勢は決まりました。長州藩勢力に対しては京都から出ていくよう指示が出ることとなります。

スポンサーリンク

朝廷の判断に納得のいかない長州藩側は京都御所に進軍し、その動きを阻止しようとする会津藩などの諸藩の兵と戦闘になりました。

薩摩藩の支援もあり御所を警護している会津藩を始めとした諸藩(桑名藩、越前藩などなど)は長州藩勢力の撃退に成功します。長州藩を率いていたリーダーの一人である久坂玄瑞さんは自害し、この戦闘に参加していた攘夷派の指導者として有名な久留米藩士の真木和泉さんも立てこもりの末に自害しています。

負けが決定的となった長州藩勢力は京都から撤退していきました。この戦闘で長州藩側が京都御所に向かって砲撃したことが理由で朝廷側から朝敵、つまり朝廷の敵と判断されてしまいます。長州は朝廷の許しを求めるために京都へ出兵したはずなのですが長州藩の目論見とは全く逆の結果となってしまいました。長州側にとっては更に残念なことに朝廷から幕府に対し長州を討伐するよう命令も出されることとなってしまいました。

以上が禁門の変に関する大まかな内容になります。

 

スポンサーリンク

禁門の変の時の桂小五郎さん

 

禁門の変が発生した1864年。長州藩士である桂小五郎さんも京都で活動していました。しかし禁門の変の戦闘行為には加わっておらず、他の藩のおもだった人たちに長州藩を始めとした攘夷側の勢力を支援するよう求めて回っていたようです。しかし他の藩からは具体的な協力は得られませんでした。長州藩が敗北し撤退していった後の京都内部では攘夷派勢力に対する厳しい取り締まりが行われたそうです。

京都に滞在して活動を続けることは危険であり大変難しい状態であったため、桂さんは一旦京都を出て兵庫県の出石(いずし)という場所に身を隠して、長州復権の機会を待つことになりました。

 

禁門の変の時の西郷隆盛さん

 

薩摩藩の命令に従わなかったという理由で1862年に島流しにされた西郷さんは1864年の2月まで沖永良部島で過ごしていました。しかし薩摩藩の多くの人の働きかけによって島津久光さんからの許しが出て西郷さんは仕事に復帰することになります。すぐに京都へ派遣されました。京都では薩摩藩の兵員を統率する司令官的な役目を言いつけられます。

薩摩藩も京都御所の警備に当たり禁門の変では長州藩側と戦闘になっていました。会津藩は蛤御門(はまぐりごもん)周辺で長州藩に出入り口を突破されそうになったそうですが、西郷さんが率いる薩摩藩の支援によって長州藩を撃退する結果となりました。

 

スポンサーリンク

八月十八日の政変、池田屋事件と長州側にとって被害が大きい出来事が続き、巻き返しを図った京都出兵ですがこの禁門の変でも結局は長州が敗れてしまいました。長州藩の中にもこの出兵について慎重論を唱えていた人もいたそうですが強硬論者を抑えることが出来なかったようです。当時の長州藩の動きを知るほど無謀だなぁという思いがします。たとえ長州が有力な藩だとしても相手になるのは一つの藩だけではなく、幕府も様々な有力な藩も結束して向かってくることになるのですから。当初から勝利する見込みは相当低かったのではないでしょうか。

朝廷内部の意思決定に関しては状況が異なっていたようです。長州擁護の意見が皇族や公家の方たちから出たそうですので。そのような長州擁護の意見について幕府や会津藩側は相当不満だったでしょうね。本来皇族や公家の方たちは天皇を守るべき立場の人たちなのに、孝明天皇を担ぎ出して直接攘夷の為に出陣させようとしたり、孝明天皇の身柄を奪って長州へ連れていこうとするような計画を立てていたとも言われる勢力をこの期に及んで擁護する意見が皇族や公家の方たちから出るのですから。見方によっては一部の皇族や公家の方たちの心をつかむ長州をはじめとした攘夷派の活動の成果はすごいとも言えるのでしょうね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

公武合体関連記事「老中安藤信正公のすすめた公武合体とは何なのか調べてみました。」はこちらです。

公武合体関連記事「島津久光の行動が契機となった『文久の改革』の内容とは」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る