中国の春秋時代と戦国時代ではどんな違いがあるのでしょう

中国大陸の春秋時代と戦国時代の違い

中国大陸の古代の出来事や王朝の歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では周王朝という大陸の広大な地域を支配していた国が衰退し、異民族に侵略されたことをきっかけに遷都した後の、春秋時代(しゅんじゅうじだい)と戦国時代(せんごくじだい)という二つの時代の違いについて私なりに書いてみたいと思います。時代の順番としては春秋時代が先で、その後が戦国時代となります。西暦で表しますと春秋時代が紀元前770年、あるいは771年~紀元前453年あるいは403年までの大体300年ほどの期間とされており、戦国時代は紀元前453年あるいは403年から秦(しん)という国が中国大陸の広大な地域を統一することに成功する、紀元前221年までの大体200年ほどの期間とされています。いずれの時代も日本では小国が分立していたとされているようです。300年、200年とどちらも相当な長さの時代で、どちらの時代でも中国大陸の諸国が戦いを繰り広げていたという点では共通していますが、この二つの時代ではどういった違いがあるのでしょう。周という国の王様に対する諸国の姿勢に違いがあると言われていますし、もちろん二つの時代を通して大国として生き残っていた国もありましたが、主導権を巡って争った主要な諸勢力についても違いがありました。戦国時代のほうが勢力の数が少なくなっています。また覇権を争うといった国家間の戦いとは別に、農業生産量の変化が影響して人々の間の結びつきという点でも二つの時代には違いがあったようですし、戦国時代に入ると特定の分野の商人が大きな利益を得たと言われています。

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周に対する遠慮

異民族の侵略を撃退できず、都を移さざるを得ない事態となった時点で周という国の実力は落ちてしまっているわけですが、それでも春秋時代はかつての大国の指導者として周の王様は尊重されてはいました。これまで周の家来の立場で領地を与えられ治めることを任されていた諸侯、領地を与えられていた指導者たちは諸侯同士で戦をすることはあったものの、周という国と戦争をすることは基本的には無かったようです。例外として以前記事にしたこともありますが、周に隣接する鄭(てい)という国が周の王様と関係が悪くなって、周の王様がいくつかの国を率いて鄭を攻撃したので周と鄭の戦いとなってしまったということはありました。しかし周を撃退した鄭が周に反撃し周を滅ぼすようなことはしていません。春秋時代は周の王様を尊重し、そのもとで有力な諸侯の国が他の国々をまとめるような枠組みとなっていたようです。一方戦国時代になると、有力な国々の指導者と周の王様との関係が薄かったためなのか、春秋時代に比べ周の王様はあまり尊重されなくなっていきました。春秋時代から既に自らのことを「王 おう」と称する国の指導者は存在していましたが、まだまだ自らを周の王様の家来という立場である「公 こう」と称する諸侯も存在していました。それが戦国時代になりますと有力な国々の指導者は大抵自分のことを王とし、周の王様の配下だとするような遠慮を見せることが無くなっていきます。春秋時代に力のあった晋(しん)という国が趙(ちょう)、韓(かん)・魏(ぎ)に分裂してしまったことを境として戦国時代となるわけですが、この晋という国は周の王朝を創った武王さんの息子である成王(せいおう)の弟さんが、成王から領地を与えられることによって誕生した国でした。そのため晋は周との結びつきが強い国だったのです。また斉(せい)という国も周王朝誕生に貢献した人物、日本で太公望(たいこうぼう)の名で知られる、呂尚(りょしょう)さんが周の王様より領地を与えられ誕生した国です。斉は周との結びつきがとても強い有力国だったのですが、この国も戦国時代に斉の指導者の家来に国を乗っ取られることとなります。時代を経るにつれ周との結びつきの強い有力国が姿を消していき周の王様に遠慮するような、周の王様を尊重するような風潮が薄まっていくこととなります。

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主導権を争った主要な国々

本来周の家来の立場にあった諸侯たちの国々は200くらいの数にのぼる、大変な数だったそうです。しかし春秋時代、戦国時代、大陸を舞台に影響力の拡大を競った国々というのはごく一部の限られた勢力でした。春秋時代と戦国時代とではその主要な勢力が異なってきます。春秋時代は春秋十二列国(しゅんじゅうじゅうにれっこく)などと呼ばれる12の国々が競い合ったと言われていますし、その後の戦国時代では戦国七雄(せんごくしちゆう)と呼ばれる7つの国々が生き残りをかけて戦うこととなりました。春秋十二列国と呼ばれる国々は魯(ろ)、衛(えい)、晋(しん)、鄭(てい)、曹(そう)、蔡(さい)、燕(えん)、斉(せい)、宋(そう)、陳(ちん)、楚(そ)、秦(しん)とされています。一方の戦国七雄と呼ばれた国々は燕、斉、韓、魏、趙、秦、楚の7カ国です。斉については前の項目で触れました通り、太公望さんの子孫が指導者となっていた斉ではなく、家臣が乗っ取った国となっているため、乗っ取った人物の名称を付け加えて田斉(でんせい)と呼んだりもします。韓、魏、趙については先ほど触れたように晋が分裂して出現した国です。ということで、体制が変質していない状態で、どちらにも名を連ねる国は燕、秦、楚の3カ国ということになります。その後、秦が戦国時代の最終勝利者となりました。

生産量の変化、産業の発展

きっかり戦国時代に入ってそうなったというわけでは全くありませんが、春秋時代の中頃から鉄製の道具が人々の間で使われるようになり、農作業の効率が向上することとなりました。鉄製の農機具が普及することや牛の力を応用して農地を耕す方法の普及によって農作物の生産量がそれまでと比べ増加する結果となります。戦国時代に入ってからもそういった傾向が続き少人数で経済的に自立した農業経営をすることができるようになり、同じ一族で集団を形成し生活するような、血縁関係の結びつきがそれまでと比べ薄れていったという指摘が多いようです。また、先ほど触れたように鉄製の道具が大変便利であったことで鉄の需要が拡大し鉄の生産をおこなう業者が大きな利益を得ることとなりましたし、生活の必需品でもあり人口の増加や食生活の変化によって塩の需要も増加したそうで塩を生産する業者も大きな利益を得ることとなったと言われています。

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今回は周王朝が遷都した後の時代、春秋時代と戦国時代の違いを一部取り上げました。この二つの時代、個人的には名前を聞くことはあったものの周王朝が繁栄していた時代の後の混乱した期間のことを意味していたことは知らず、春秋時代と戦国時代で違いがあることもよくわかっていない状態でした。中国大陸の歴史を大まかにでも理解してみたかったため春秋、戦国両時代の傾向があるのなら知っておきたく今回のようなテーマの記事を作ってみることとしました。周を大切にする勢力が姿を消していくことで周がさらに影響力を弱めていくこととなったわけですが、周との深い関係にある晋や斉で家臣が台頭し指導者が追いつめられる結果となってしまったのはどうしてなのか、気になりました。主君が家来をきちんと従えていくというのは簡単ではないんですね。晋が三カ国に分裂し趙、韓、魏となってしまいましたが、この三カ国はどの国も戦国七雄に名を連ねています。そう考えますと晋という国が盤石であったなら晋が最終勝利者になる道も、もしかしたらあったのかもしれません。後ろ盾となってくれる国もなくなり大国の機嫌を損ねる動きをしてしまったことをきっかけにして周は滅んでしまうこととなります。殷という王朝が滅んでから大変長い期間が経過してはいますが最初は盤石であった周もそのような結果となりました。統一に成功する秦もその後滅んで漢という王朝が誕生することになりますし、王朝の維持という点では中国大陸は大変過酷な地域ということなのかもしれません。一つの王朝が仕切るにはあまりに広大すぎるということなのでしょうか。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では3104さんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

大陸混乱の発端となった周の凋落について触れている話「強大な周王朝(西周)が滅亡した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

日本国内の戦国時代について触れている話「応仁の乱は戦国時代になぜつながっていったのでしょう」はこちらです。

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