織田信長さんがうつけ者と噂された理由は何だったのでしょう

織田信長さんがうつけ者と言われた理由

 

織田信長さんはそれまでの戦国大名が実現できなかったほどの広大な地域を勢力下におき、天下統一に大変近付いた、戦国大名として大変優れた才能を持っていた人物ですが、若い頃の信長さんの評判はその後の実力者としての名声とは異なる、悪いものだったようです。うつけ者、この言葉は愚か者といった意味のようですが、世間の人々は尾張を治めていた織田家の子息である若い頃の信長さんのことをそのように言っていました。どのような理由で人々は信長さんのことをそのように悪く言ったのでしょう。よく挙げられるのは若い頃信長さんが好んでしていた身なりや振る舞いが悪かったということや信長さんの父親が亡くなった後の法要での奇行です。信長さんの評判が悪かったことがどこまで影響したのか明言は出来ないものの、他の人物、信長さんのご兄弟に家督を継がせようといった動きもあったと言われています。また当時の人々から眉をひそめられる信長さんの振る舞いにより命を落とす人物も出てしまいました。

 

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若い頃の信長さんの様子

 

若い頃の信長さんの様子ですが、武芸の稽古や兵法の学習、体の鍛錬などを毛嫌いしていたわけではなかったようです。ただどの分野の学問にもまじめに取り組んだかというとそういうわけではなかったらしく、学ぶ場所での態度が悪かったなどと言う話もあるようです。好んでしていた身なりというのは時代劇などで有名かもしれませんが、袖(そで)なしの浴衣のようなものを着て、体の下は丈(たけ)の短い袴(はかま)を穿(は)き、その袴も動物の皮のような大変目立つ柄(がら)でした。目立つことを意識したからなのか赤色の鞘(さや)の刀を差し、体に複数の瓢箪(ひょうたん)や袋を下げ、縄を体に巻きつけるような、そういった身なりだったそうです。髷(まげ)は茶筅髷(ちゃせんまげ)と言われる髷の先端を茶道でお茶をたてる時に使う道具、茶筅(ちゃせん 今回使用している写真に茶筅が写っています。)のように尖らせたものにしていました。奇抜で動きやすい、考え方によっては合理的な面もある格好でしたが当時の戦国大名の家系の子息という立場を考えれば、そんな恰好は無いだろうと思われるような風体だったようです。そのような身なりで同じような格好をした街の親しい者たちとつるんでふざけたり、ところ構わず好きな物を食べていた様子は人々から品が良いとは受け取られませんでした。

 

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父親の葬儀で

 

親が亡くなった時にはそれなりの服装をして慎んだ姿勢で葬儀に参列するのがやはり常識でしょうが、信長さんの場合は違っていました。父親の織田信秀さんが亡くなった時には上の項目で書いたような目立つ格好、当然そのような場にはふさわしくない格好で葬儀の会場に現れ、亡くなった父親の位牌に向かって焼香に使われる粉末状のお香を投げつけた、そんな出来事があったと言い伝えられています。この話が本当であれば葬儀に列席した人々を当然戸惑わせたことでしょうし、この人物は大丈夫なのかと疑念を持つ織田家中の人々もいたことでしょう。

 

責任を感じた方

 

戦国大名織田家の子息という立場ですので信長さんの教育を担当する人物が付けられていました。悪い噂が立つようなことをしていたのならば、信長さんに対し振る舞い方についてこの教育係の人が諌(いさ)める、注意、指摘することになります。しかし信長さんの行動が改まらないため、責任をとって教育係の方は自害されてしまいました。そのような事態に至り信長さんも後悔の念を持ったようでこの教育係で自害されてしまった平手政秀さんを弔うためのお寺を後に建立しています。このお寺は政秀寺(せいしゅうじ)といい、名古屋市の中区にあります。

 

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今回は信長さんが若かったころの評判について一部取りあげました。時代劇でも若い頃の信長さんは野性的に振る舞う演出で取りあげられていることが多いように思いますが、愚か者と噂される理由には何があったのか確認したくこのようなテーマで記事を作ってみました。父親の葬儀での一件は私も聞いたことがありますが、そんな振る舞いがあれば確かに周囲の人が「あ~ぁ」とあきれてしまったとしても仕方ないよなぁという気もします。あきれるだけならまだましですが、普段の信長さんのおこないに責任を感じ死んででも諌めようとする人物も出てしまったのですから、大名の子息として度が過ぎていたことは否めないのでしょう。型破りなのは確かですが、どうして信長さんはそのような行動をとっていたのでしょう。織田家に対する謀反を企てるような野心をもった人物を、自分が愚かであることを装うことによって見つけようとしたとか、目立ったことをして周辺の戦国大名などに跡取りとしての自分を印象付けようとしたからなどといった見方もあるようです。本当にそのような魂胆があって常識とズレた行動をしていたのなら若いのに知恵のはたらく人だなと驚くところですが、実際はどうだったのか何とも言えません。教育係の人物を死なせて後悔するくらいですからその知恵も完全だったとは言えないのでしょう。死んで諌めようとするような話は江戸時代以前の世の中だけで起こり得る特別な事例なのかもしれませんが、度を越したことをしていると自分の身の周りの大切な人に思いがけず大変な迷惑をかけてしまうことがあるわけですから注意したいものです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

信長さんの人柄がうかがわれる出来事について触れている話「織田信長さんと上杉謙信さんの関係はどうだったのでしょう」はこちらです。

信長さんの人柄をうかがわせる出来事について触れている話「織田信長さんと足利義昭さんが対立したのはなぜなのでしょう」はこちらです。

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