日露戦争を開始した日本側の理由は何だったのでしょう

日本が日露戦争を開始した理由は

明治維新以降の日本に関係する重大な出来事や現代に近い時代、近代の戦争にまつわる話、出来事について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では明治維新以降に日本が戦うこととなる、二度目の他国との大規模な戦争として有名な日露戦争が開始された理由について、いくつかの事実に触れながら自分なりに書いてみたいと思います。日本がロシアと対立を強めた理由の一つに日清戦争の講和条約、下関条約で定められた遼東半島(りょうとうはんとう)の割譲(かつじょう 領有権を譲り渡すこと)を、ロシアを中心とする複数の国による横やり、いわゆる三国干渉(さんごくかんしょう)によって断念せざるを得なかったことがありますが、今回の記事で注目するのはそのような重大な背景に比べてもっと直接的な原因となります。その点ご了承いただけますと幸いです。三国干渉された時期、日本はロシア帝国に比べ軍事力が劣っており、とてもロシアと戦争などできない状況だったのでロシアなどの国々が遼東半島を清に返還せよとの圧力に従うしかありませんでした。日露戦争がおこなわれた、三国干渉がおこなわれてから9年後の明治三十七年(西暦1904年)の時点でもロシア帝国が軍事大国であることに変わりはありませんでした。英国が日本側についてくれるという幸運な状況が到来したとはいえ負けるかもしれない対露戦争など日本が嬉々としてやるはずもありません。しかし歴史によると、軍事行動に関して言えば日露戦争は日本側の攻撃によって始まっているようです。一般的に劣勢と当時見られていた日本はどうしてロシアとの戦争に打って出たのでしょう。日本が脅威を強く感じるような軍事行動を特定の地域でロシアがおこなったことやロシアとの間でどうしても妥協することの出来ない日本側の国益についてロシアが理解を示さなかったことなどが関係しているようです。

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ロシア軍が満州地域に

三国干渉後、ロシアは遼東半島(満州の南部にある大きな半島)の南部地域である大連(だいれん)と遼東半島の先端にある旅順(りょじゅん)という港に適した土地を清国から租借(そしゃく 他国の領土を借りてその地域を自国のように治めること)します。租借した地域にはロシア軍が当然駐留することになります。旅順はロシアにとって大変重要な軍港となりました。その後もロシア軍が満州に入り込む出来事が起きます。明治三十三年(1900年)には清国内で他国勢力を清国の民間人たちが激しく排斥する義和団事件が発生してしまいます。欧米や日本各国は清国内に滞在している自国民や清国内に存在する自国の財産を守るために軍隊を派遣し他国を排斥しようとする武装勢力と戦闘を繰り広げました。この過程で清国の政府も他国を排斥しようとする武装勢力と連携し欧米、日本と戦うという選択をしてしまいます。北清事変などという出来事ですが、この時にロシアは満州地域に自国の軍隊をさらに15万人出動させて駐留、滞在させてしまうようになりました。北清事変の主な戦いの舞台は北京や天津といった、満州とは異なる地域(華北地域)だったのです。しかしロシアは満州に自分たちが敷いた鉄道、東清鉄道があり、そのような自国の財産、施設が武装勢力に破壊されてはたまらないので保護を理由に満州に兵を進めたのでした。そういった事情で満州に入ったロシア軍ですが、義和団事件、北清事変が一応の決着を見た明治三十四年(1901年)の講和成立以降も満州から撤収する動きを見せず、その後清国から兵を引く約束をしたそうですが、約束通りには撤収を進めませんでした。満州は朝鮮半島の北側と隣接する地域。すぐ近くですし、満州に野心を持ったのと同様に何らかの理由をつけてロシアが朝鮮半島をも手中に収めようとしない保証はありません。日清戦争後、特に朝鮮半島地域で大きな影響力を持っていた日本は危機感を非常に強めました。

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朝鮮半島進出、交渉

日本にとって幸運なことにイギリスが日本側を支援してくれる立場を表明し同盟関係を結ぶことが出来ました。ロシアが満州から段階的という条件を付けはしたものの、軍を撤収させる約束をするようになったのはそういった国際環境の変化によるようです。しかしイギリスがついてくれるからと言ってロシアと戦争して勝利できるなどという保証はどこにもありません。さらにロシアは満州から兵を引くと約束したにもかかわらずその後兵を撤収することはありませんでした。ロシアとの戦争をせずに朝鮮半島地域の権益を確保したい日本は明治三十六年(西暦1903年)の8月に日露間の交渉に臨みます。日本はこの交渉でロシアが義和団事件以降満州に動員した軍隊を撤収させることや日本が朝鮮半島を、ロシアが満州を自国の勢力圏であることを認め合い、ロシアが朝鮮半島地域に干渉してこないよう要求したそうです。その代わり日本も満州地域に干渉しないという妥協をロシアに対して示して朝鮮半島へのロシア進出を食い止めようとしました。ロシアは日本と明治三十一年(1898年)にロシアが韓国の内政に干渉しないことや朝鮮半島地域の日本の経済的地位がロシアよりも優先されるといった協定を結んでいましたが日本側もそういった過去の協定では心もとないと考えたようです。実際ロシアと交渉してみると満州からロシア軍が兵を引くことなど満州に関する日本側の要求にロシアは反発しただけではなく、朝鮮半島の北半分の領域に関して日本側の勢力圏であることを認めない(中立化)ことや日本は朝鮮半島地域の軍事利用をするなという態度に出てきました。南側の領域については勢力圏として認めてもよいということでしたが、日本からしてみるとこのロシア側の姿勢はとても受け入れられるものではなく結果的に交渉は成立しませんでした。この交渉以前にロシアは朝鮮半島と大陸側と間の境界として重要な大きな川、鴨緑江(おうりょくこう)の南岸、つまり朝鮮半島側の川岸で森林の伐採などをして、それだけにとどまらず伐採事業の支援を理由にロシア軍の部隊をこの地域に駐屯させようとしてきました。明治三十六年(1903年)の7月に朝鮮半島に存在していた国、大韓帝国はロシアと条約を結び、朝鮮半島北部の一部地域をロシアに租借することを認めます。このようにロシアによる経済、軍事をひっくるめた朝鮮半島への進出は実行に移されていました。交渉が決裂し朝鮮半島にロシアが進出することを容認できない日本はロシアとの戦争を決断。日本はロシアとの国交を断絶し、断交から二日後に日本海軍がロシア海軍の軍港となっていた旅順を攻撃、実質的に日露戦争が開戦となりました。

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今回は日本が日露戦争を始めた理由について取り上げました。以前にも日露戦争に関する記事を作りましたが、戦争を始めた日本側の理由について以前作った記事よりも詳しい内容を確認してみたく今回のようなテーマの記事にしてみました。今回の記事を作っていて改めて当時の日本政府にとって朝鮮半島地域は日本の国防上非常に重要な地域として意識されていたということを強く感じました。またイギリスの後ろ盾や三国干渉以降国防に力を入れてきたという日本側の事情もあるのでしょうが、ギリギリまで交渉をおこなって戦争の回避にそれなりに力を尽くしていた日本が一転して開戦にかじを切ったわけなので、国というものにはどうしても譲れない一線があって、それを侵されると今回の場合は交渉から開戦ということですが、状況が一変してしまうといったこともあるものなのですね。明治三十六年(1903年)の夏に日本との交渉にあたったロシア側の担当者が朝鮮半島を日本側の勢力圏と認めていれば戦争は起きなかったわけで、そうであれば日本がロシアに勝利して満州地域に権益を得るような事態にもならなかったはずです。そうなるとアメリカや中華民国との関係も現実のものとは大きく変わっていたのかもしれません。その場合満州地域はロシアのものとなっていたのかもしれませんがロシア革命が起きた場合満州はソ連のものになってしまっていたのでしょうか。仮定の話をあれこれ考えてもきりがありませんが、ロシアが朝鮮半島を日本の勢力圏と認める動きは架空の話ではなく実際にあったのだそうで、日露交渉でいつまでも朝鮮半島にこだわって交渉が進まないことを問題視したロシア皇帝は満州の権利を確保するため日本に朝鮮半島を譲って話を進めるよう指示を出したという指摘もあるようです。そういった話が交渉の場に届く以前に交渉が決裂して間に合わなかったわけですが、戦争を回避できたかもしれない妥協案がすぐそこまで来ていたというのは何とも惜しい話です。国によって事情は違うかもしれませんが、こちらが軍事的に優位だからと言って交渉で相手を追いつめてしまうと戦争になってしまい結果的に相手ではなく自分が損をしていたなどということもあるわけですから要求もほどほどにしておいた方が無難なのかなという気もしました。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事でも写真ACで提供されている写真素材を使用させていただいております。

本文で出てきた三国干渉について触れている話「三国干渉とは?干渉した理由やイギリスの姿勢について」はこちらです。

日露戦争の講和条約について触れている話「日露戦争での英米の動きとポーツマス条約の内容について」はこちらです。

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