義和団事件、北清事変とは?日本の対応についても

義和団事件、北清事変とは

 

義和団事件(ぎわだんじけん)、北清事変(ほくしんじへん)は清国で発生した出来事です。西暦1900年に発生しました。義和団という武装した勢力が清の天津、北京地域で外国関連の公共設備やキリスト教関係施設を破壊し関係者を襲撃する事件が増加していきました。恐ろしいことにこの勢力が清の首都である北京へどんどん流入します。本来治安を乱している存在のため清国政府が鎮圧するのが普通なのですが、当時の清国政府はそうしませんでした。

義和団は勢いに乗り北京に存在する他国の公使館を取り囲み他国の人々を襲おうとします。この出来事が義和団事件と呼ばれています。各国の公使館関係者は公使館の領域に侵入されないよう協力して持ちこたえようとしますが、いつまでもその状況で持ちこたえるわけにもいきません。清国の治安当局や清国の軍隊が義和団を鎮圧してくれないので、公使館の人々は本国に連絡し軍隊の派遣を要請します。

清国政府はこのような状況の中、6月21日に各国に対し宣戦布告を出してしまい、清国の軍と義和団が一方の側、公使館に立てこもる人々を救出しようとする各国の連合軍がもう一方の側となって武力衝突することとなります。これが北清事変と呼ばれる出来事です。

 

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日本の対応は

 

日本の公使館も当時北京にあったので、他国同様危害を加えられてしまいそうな状況でした。当時の日本政府は第2次山県有朋内閣が仕切っていました。日本政府は軍隊を派遣することとします。最終的には20000人を超える兵員を派遣することとなりました。

日本は他の軍派遣国、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア、イタリアと連合軍を編成します。派遣兵員数が一番多かったのは日本でした。

連合軍は天津に入り清国の軍と戦い勝利します。(天津は海に面した都市です)天津を制圧した後、連合軍は天津から内陸側に存在する首都、北京に進軍しました。天津を占領したのは7月です。北京の公使館は既に6月には危険にさらされていました。

連合軍は8月の半ばにようやく北京に到達し義和団や清国軍と戦いました。連合軍の攻撃開始が8月14日で翌日には制圧出来たのだそうです。これで義和団に取り囲まれ、公使館に立てこもっていた多くの人たちが助けられることとなります。この後外国の連合軍が北京を占領する状態がしばらく続くことになりました。日本の軍隊も当然含まれています。

 

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義和団とは

 

元は山東省(中国大陸の沿岸に存在し遼東半島の向かい側にある省です)を中心に台頭した勢力でした。武術をたしなむ人々が現地の人たちと外国からやってきたキリスト教関係者や清のキリスト教信者の間で頻発していた争いに介入するようになります。現地の人たちの他国に対する不満は当時強かったため、勢力はどんどん拡大しました。やがて義和団(ぎわだん)と名乗るようになり、「扶清滅洋」(清を助け外国勢力を倒す)を標語として掲げます。

この勢力は清の南の地域には広がらず(南の地域では義和団に対する役人の取り締まりが厳しかったそうです)、勢力が誕生した山東省でもこの地域を治める人物が代わったことで義和団に対する圧力が強まりました。そのためこの勢力は山東省から周辺の地域へ移動していきました。その結果天津や北京に義和団勢力が入り込み破壊活動を繰り返していくこととなったようです。

 

今回の記事では義和団事件、北清事変を取りあげてみました。日本とロシアの緊張状態が悪化するきっかけとなった出来事だそうですし、このような「おおごと」になるきっかけは何だったのか関心もありました。

清国政府が合理的に事態に対処するとしたら、清の軍や警察を動員して義和団の暴動を速やかに抑え他国の介入を未然に防ぐのが最良の方法のように感じます。しかし8カ国を相手に宣戦布告をしてしまうというよくわからない決断をしてしまいました。当時の清国では政策の最終判断をするのは当時の清国の皇帝よりも先代の皇帝の母親、西太后(せいたいごう)という人物だったようです。当時の宮廷では義和団を鎮圧して他国に介入させないようにしようという勢力よりも他国と戦おうという勢力が発言力を強めていました。当時の清国政府内は政策を判断する仕組みが著しく劣化していたようです。

 

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少し話がずれますが、義和団事件のような話になる以前、義和団が勢力を拡大していった理由はキリスト教組織が引き起こすトラブルの為だったことを今回知りました。キリスト教信者の清の人たちや、布教活動を行う外国人が現地の人たちと問題を起こさなければ、義和団が介入する必要もありません。キリスト教関係者の現地の人たちに対する姿勢が傲慢であったという指摘もこの件を調べていて目にすることがありました。おごりたかぶる、いばるという姿勢は私が持っていたキリスト教の印象と異なっていたので意外に感じました。

イエスさんは基本的に隣人を愛するよう人々に伝えていたはずなのですが、欧米列強方式でキリスト教が広まったことが理由で清国では混乱が起きてしまったというわけですから、イエスさんが全く期待しない結果になってしまったことになります。キリスト教の勢力はイスラム教の勢力と大きな戦争をした歴史もありますし、教義の内容が平和的なものであったとしても、その宗教を広めたりしようとすると周りとの摩擦が生まれてしまって、かえって争いがひどくなってしまうものなのでしょうかね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載した写真に関係はございません。ご了承ください。

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