アロー戦争とは?起きた理由と戦争した国、結ばれた条約について
「アロー戦争」が勃発した理由
直接的な原因はアロー号事件が発生したためでした。イギリス船籍の中国の船である「アロー号」に対し、イギリス船籍なのに清国の取締機関が勝手に臨時の検査を行い、一部の船員を海賊の容疑で逮捕したり、取締機関が船に掲げられていた英国の国旗を引きずりおろしたといわれた出来事でした。
清の取締機関の抜き打ち検査は正当な行為であり、非難されていた国旗に関する行為についても、そもそも国旗など掲げられていなかったという話もあるそうです。
この事件でイギリスの領事は強く抗議し清の担当者と交渉しましたが話し合いはうまくいきませんでした。それからイギリスの香港総督が広州にいたイギリス軍に命令し広州の砲台を占領しました。その後イギリス本国からも軍が派遣される事態となりました。
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英国側には清国とアヘン戦争のように改めて戦争して清国にイギリスの要求を受け入れさせたいという考えがあったといわれています。イギリスが清国と貿易をしてもイギリスから清国への輸出額が期待しているほど増えていない、便利な港はあるものの清国は開港しないといった経済上の問題、清国に滞在するイギリス人が清国の人々に襲われる事件が起きているもののそのような事件が全然減らないといった安全に関する問題などがあり、これらの問題でイギリスが戦争を望んでいたようです。
「アロー戦争」で戦った国
この戦争は清国とイギリス・フランスの連合軍の間で戦われました。なぜこの戦争にフランスが関わっているのかですが、イギリスがフランスにこの戦争への参加を呼びかけたためです。フランスは自国の宣教師が清国で捕まり犠牲になったという被害が出ていたことを理由に参加することとしたそうです。
実際に戦った国はこの三カ国ですが戦争を終わらせるにあたってはロシアが間に立って調整をしました。
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「アロー戦争」で結ばれた講和条約
最終的に結ばれたのは北京条約です。しかしその前に天津条約が批准されかけるところまで行きましたが、1859年6月に清国の軍隊がイギリス・フランスを攻撃し天津条約で戦争を終えることが出来なくなってしまいました。結果イギリス・フランス連合軍は北京を占領するまで進軍しました。そして北京条約が結ばれました。1860年に条約が結ばれ戦争が終了しています。
北京条約ではイギリスやフランスに対し800万両の賠償金の支払いや天津など新たに11の港を開港する事、イギリスに九竜半島の一部地域を譲り渡す事、北京に外交官が駐在することを許可する事、外国人が清国内を自由に旅行するのを許可する事、外国の軍艦が揚子江を通ることを許可する事、キリスト教の布教を許可する事、清国国民が海外へ渡航する事を許可する事、アヘンの輸入を正式に認める事などが約束されました。
清国国民が国外へ出ることによってイギリスなどの国は清国の人たちを労働力として安く利用することが出来るようになってしまいました。
アヘンはアロー戦争以前にも非公式に輸入されていましたが、この戦争後に輸入が公認されました。
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清国にとっては踏んだり蹴ったりの史実ですね。自国が清国のような目に遭ったらイギリスの人もフランスの人も私のような日本人も当然嘆くと思います。
清国内の外国人排斥運動がかえって戦争を引き起こす原因の一つになったというのは皮肉ですね。ただ、イギリスから危険物がどんどん入ってくるようになればイギリスに対する反感を持つ清国人が増えて当たり前という気もします。
清国が強力な軍隊を保有していて、イギリスやフランスが「戦争したら負けるかも」と思うような状況であればこのような出来事は起こらなかったんじゃないかなぁ、などと想像してしまいました。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
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