足尾鉱毒事件とは?とられた対策や田中正造についても
足尾鉱毒事件とは
足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は西暦1891年(明治24年)に発生した公害事件です。栃木県の北西部に現在日光市という自治体がありますが、その日光市の南西部に足尾地区という所があります。この地区にかつて足尾銅山と呼ばれる鉱山がありました。現在は操業されておらず、銅山の跡として観光資源となっています。
足尾銅山では銅の鉱石、銅が含まれた石が採掘され、その鉱石から銅が採り出され、純度の高い銅にするための精錬(せいれん)という工程もこの場所で行われていました。この足尾銅山から有害物質が排出されてしまい周辺の環境を破壊してしまうこととなります。
足尾銅山で大量に消費される燃料によって煙が出ることや銅の鉱石に高い熱を加えて溶かし銅を取り出す過程で出てくる有毒な硫黄化合物のガスで周辺の植物は枯れていき木が生えなくなりました。これによって山が雨によって崩れやすくなってしまいます。土砂は川によって運ばれ川の下流域にどんどん溜まっていき、川の底が高くなることで川の下流域では洪水が発生しやすくなってしまいました。この足尾銅山の近くを流れる川は渡良瀬川(わたらせがわ)と言います。
また足尾銅山からは銅の精錬の為に使われた廃棄物として様々な化合物が含まれる水が排出されました。銅の化合物や硫酸がその中に含まれていたようです。毒性のある成分が含まれる水が川に流れ込み、川に生息する魚が大量に死んだり川から水を得ていた水田で稲が育たなくなるなどの現象が報告されるようになりました。
被害を受けた住民は農家の方々を中心にして足尾銅山の操業に反対する運動を行いました。地域住民の抗議活動を受けて国は公害対策を講じますが被害を完全に解決することは出来ませんでした。しかも足尾銅山の操業はその後も続けられることとなります。
状況から考えて周辺の環境が破壊されたのは足尾銅山の操業が原因であったことは明白でしたが、銅の採掘は1973年(昭和48年)という公害発生から80年以上あとまで続けられ、裁判所が銅山を経営していた会社を加害者と認めたのは翌年の1974年(昭和49年)という周辺住民にとって大変に厳しい結果となりました。
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とられた対策は
公害被害によって抗議活動が盛んとなり国も対策をとるために動きました。鉱石から銅を取り出す時に排出される有毒ガスから硫黄分を取り出すための装置を備え付けることや、排出される有毒な汚水をろ過する設備、汚水内の有害物質を沈殿させて川に流れないようにするための設備、有害物質が周辺に拡散しないよう隔離して保管しておくための場所の確保、このような内容を国は銅山を所有、経営する会社に命令しました。1897年のことです。公害の被害が出始めて6年後のことでした。他に国は公害被害によって収入を断たれた人たちは税金の支払いをしなくて済むような処置もとったそうです。
しかし残念なことに公害被害が住民の方々が満足するほど収まったわけではありませんでした。
その後汚水を含む渡良瀬川の水が洪水によって流域の土壌を汚染してしまうことを防ぐため洪水の対策がとられました。洪水が発生しそうな場合に備え水浸しになってもよい土地、遊水地(ゆうすいち)を設定し他の地域を洪水から守ろうと判断したのです。遊水地として国が定めたのはかつて谷中村(やなかむら)という村が存在した場所でした。その地域に住んでいた人たちは強く反発しました。
他には渡良瀬川の川の流れを変えるなどの工事も行い洪水対策としたようです。
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田中正造さんについて
田中正造(しょうぞう)さんは足尾銅山の操業に反対する運動の中心的な存在だった方です。地方の役人や酒屋の社員として働いたのち地元の政治家として活動するようになったようです。
その後立憲改進党に所属し1890年衆議院議員選挙に立候補し当選します。この頃から足尾での公害が報告されるようになり田中さんも議員として公害問題解決のために活動しました。しかし国は根本的な解決を図る姿勢を見せず、1901年田中さんは議員を辞職し公害問題解決のための活動を続けていきます。議員を辞職した二か月ほど後に明治天皇に公害問題の解決を直接訴えようとして警察に拘束されてしまうという出来事を起こし、当時大変注目されました。
遊水地を谷中村に強制的に作ることに対しても反対の運動を行い、地域住民の立場に立って精力的に活動を続けられました。1913年に病死されています。72歳でした。国会議員となった以降は足尾鉱毒問題と闘い続ける人生だったようです。
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今回は足尾鉱毒事件について取りあげてみました。明治時代の国の方針、殖産興業(しょくさんこうぎょう)が実施されていく中で発生した問題として近年では歴史の教科書でも取り上げられるようになってきた出来事のようですし、有名な事件ではあるものの個人的には詳しく知らなかったことでもあったため、これを機会に調べてみようと思いました。
公害発生から十分な効果が出ないような対策がとられた後、さらに銅山の操業が続けられたというのは地域の住民にとって非情な対応としか言いようがないですね。国の姿勢にあきれて地元での生活に見切りをつけるしかないと考える人もたくさんいたのではないでしょうか。とはいっても土地を離れて生活を成り立たせるというのも当時は大変困難だったことでしょうし、地元の人たちは大変な苦労をされたことでしょう。この件を調べていて公害発生時、国が地域住民に賠償をするような動きは特になかったようです。免税という対応はありましたが。
独立を守るために国を強くする。そのためには国を経済的に強くしなければならない。その一環として国を富ませるために、他国に銅を売ってお金を稼がなければならない。そのような切迫した国の事情もあったのか銅山の操業中止命令が出ることはありませんでした。
外貨獲得のため足尾の銅は貴重だということであれば、せめて地域住民が生活に困ることの無いよう補償をおこなってしかるべき話なのではないかなと思います。国が豊かになったとしても地域住民が疲弊してしまったのでは何のための殖産興業なのかわからなくなってしまいます。個人的には当時の政府のお金の使い方に疑問を感じるような出来事でした。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
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