三世一身法と墾田永年私財法の違いは何なのでしょう

三世一身法と墾田永年私財法の違い

 

三世一身法は「さんぜいっしんのほう」と読みます(「さんせいいっしんのほう」と読むわけではないようです)。墾田永年私財法は前回の記事でも取りあげましたが「こんでんえいねんしざい(の)ほう」と読みます。どちらも奈良時代に当時の政権が出した法令、規則です。この二つの規則は社会や歴史の授業で奈良時代の出来事として教わることになる内容の中でもかなり重要な部類に含まれる項目かと思います。どちらも土地に関する規則なのですが、この二つの規則の間でどのような違いがあるのでしょう。開墾、荒れ地を切り開いて農地にした場合の特典を定めているという共通点はあるのですが、大きな違いとしては、その土地を自分たちのものとして扱うことのできる期間がありました。また、身分による所有面積の制限や水路の条件についても違いがあったようです。規則が出された年代も異なります。三世一身法は元正天皇(げんしょうてんのう)の時代、養老(ようろう)七年、西暦723年に出された規則と言われており、墾田永年私財法は聖武天皇(しょうむてんのう)の時代、天平(てんぴょう)十五年、西暦743年に出された規則と言われています。墾田~よりも20年前に三世一身法が出されていました。

 

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所有が認められる期間

 

誰も使用していない荒れ地をお役人さんの許可を得てから切り開いて農地にすることが出来た場合は三世一身法ですと、切り開いた方の子供の代、孫の代、ひ孫の代までその土地を所有することが認められていました。切り開いた方のひ孫の人の次の世代は切り開かれたその土地の所有を認められません。ひ孫のかたが亡くなるとその土地は国のものとされました。切り開いた方にお子さんがいる場合を含めると四世代の人々が土地を所有地として利用出来ることになりますね(切り開いた方がお子さんのいない若いかたの場合、お子さんの代から所有が認められることになりますと切り開いた方はお子さんが出来るまで土地の所有が認められないということになるようにも思いますが、不明な点です)。ただ条件によっては切り開いた人の代しかその土地の所有が認められないこともありました。この場合は切り開いた方が亡くなられると土地が国のものとなります。墾田永年私財法の場合はお役人さんの許可を得て土地を切り開いて農地にすることが出来たのなら、本人の代、三世代、四世代などといった期間の制限なく、ず~~~っと、永年その土地の所有が許可されることになりました。当然墾田永年私財法のほうが開墾の気運も強まりました。

 

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身分による制限

 

三世一身法の場合、身分による土地の所有可能面積の制限というものは無かったようですが、墾田永年私財法は割と細かく所有していい土地の面積制限が設けられていました。身分の高いかたで最も大きな面積を認められた場合は500町(町は面積単位です 1町≒9917.388平方メートル)まで所有が許されるという規則だったようですし、身分の低い庶民は10町までとされていました。かなり格差があります。身分が高くなるにつれて所有できる土地面積は広く設定されていたようです。ちなみに東京ドームのグラウンドの建築面積は46755平方メートルだそうなので、東京ドームは5町くらいの広さということになります。

 

水源

 

農業をおこなう場合、栽培のために水、農業用水が欠かせません。この農業用水用の水源について三世~や墾田~には条件が付けられていましたがその条件が異なっていました。三世一身法の場合は独自に水源を確保した土地の場合は三世代の土地の所有が認められ、国がもともと開発していた水路を利用しなければ農地として利用できないような土地を切り開いた場合は切り開いた本人の代しか土地を所有出来ないという仕組みにしていました。一方墾田永年私財法の場合は独自に水路を開発した土地でなければ土地の所有を認めないという仕組みになっていたと言われているようです。

 

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今回は奈良時代に出された土地関係の法律、二つについて一部取りあげました。前回墾田永年私財法を扱ったので今回は同じくらい有名な三世一身法に関係した話にしてみようと思ったのですが、墾田~と三世~の違いについて一般的に関心が持たれているようなので今回のテーマのような記事にしてみました。三世一身法の場合は最終的に土地が国のものになるという仕組みだったので政権が従来掲げていた方針、「土地と人々は国のものである」に結果的には沿うものとも言えるのでしょう。しかし墾田~の場合はずっと土地所有を認めるのですから話は違ってきます。墾田~を導入する際、当時の政権、朝廷でも土地は国のものという原則を乱すことになるといった議論がされたのではないでしょうか。政権の原則と矛盾した法律であっても墾田永年私財法を出さざるを得なかったということで当時の政権が経済面などで相当窮迫していたのだろうなと推測できるような気もします。三世一身法が導入された理由については、国内の人口の増加によって従来人々に対し農業に従事させるために貸し与えてきた土地が不足してきていたといった事情があったそうです。人口の増加に従って日本の国土が増えるわけでもありませんから、国が人々に土地を貸して税を得るという政策を基本とするのは限界がありますよね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

秀吉さんの軍事行動について触れている話「文禄の役と慶長の役とではどのような違いがあるのでしょうか」はこちらです。

記事の中にも出てくる墾田永年私財法について触れている話「墾田永年私財法とは簡単に言うとどういったものなのでしょう」はこちらです。

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