労働農民党とは?党委員長や似た名称の農民労働党についても

労働農民党とは

 

労働農民党(ろうどうのうみんとう)とは西暦1926年(大正15年、昭和元年)に結成された日本の政党です。立憲政友会や憲政会などといった政党とは異なり無産政党(むさんせいとう)に分類される政党でした。無産政党の「無産」というのは、資産を持った有産階級に対し農業従事者や労働者といった一般的にまとまった資産を持っていない階級、無産階級(むさんかいきゅう)という言葉からきています。無産政党はこのような労働者や農業従事者の利益を守ることを目標にした政党でした。当時の日本で社会主義、共産主義という言葉を使うことで政府からにらまれてしまうため、政党の名前として「社会党」とか、「共産~」といったものを使うことははばかられていたようです。この労働農民党は結成当時社会主義的、共産主義的な団体、つまり左翼的な団体とは提携しないことを党の方針としていました。

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しかし党の活動が始まると各地の労働農民党の支部に社会主義や共産主義を支持する人が入党していったようでこのような人たちが一つの勢力を形成していきます。そのような人たちは労働農民党が左翼団体とも提携をするべきだという意見を主張していくようになりました。このような意見が強まっていったため左翼勢力と距離を置きたい団体が労働農民党との提携を解消していきます。結局労働農民党が誕生した1926年の内に反共主義の人たちや反共主義とは言えないまでも積極的に社会主義や共産主義を支持する考えの無い人達が労働農民党から出て行きます。その結果社会民衆党や日本労農党といった無産政党が出来ていきました。社会主義や共産主義にある程度理解を示す人たちが残った労働農民党は1928年に行われた衆議院議員選挙で2人当選者を出すことに成功しました。無産政党の中では一番票を獲得したのだそうです。しかしこの選挙の直後日本政府の判断によって労働農民党は結社禁止処分、つまり政党活動を禁止する処分ですが、そのような処分が出たことで解散させられています。

 

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労働農民党の委員長は

 

労働農民党が結成された時に中央執行委員長(党のリーダーということですね)には杉山元治郎という人が就任しました。しかし上でも書いたような社会主義や共産主義といった思想との距離感によって意見対立が生じるようになり杉山さんは党を離れることになります。杉山さんは日本労農党と関係を強めていくことになりました。杉山さんの後に労働農民党で委員長となったのは大山郁夫という人です。この大山という人がリーダーとなった体制の時に労働農民党は解散させられたようです。杉山元治郎さんは全国規模の農民組合組織である「日本農民組合」を立ち上げるにあたって中心的な役割を果たした人です。農民組合というのは農業従事者が自分たちの経済的な立場を改善することを目的に作る団体のことです。小作料を軽くするとか、安易な耕作権(こうさくけん 小作人の人たちが農地を使って農作物を栽培する権利のことです)の取りあげを思いとどまってもらうといったことを地主さんに求めることが多かったようです。大山郁夫という人は労働農民党が解散させられた後も無産勢力の指導者として活動するわけですが、新しく新労農党という政党の委員長におさまり1930年の衆議院議員選挙に当選もします。しかしこの新労農党という政党の中で共産主義に距離を置く他の無産政党と合流すべきだという意見が強まり、この政党も消えることになります。その後大山という人はアメリカに渡って大学で研究を行う生活を送って第二次大戦中を過ごしました。これはアメリカに亡命した、政治的な理由で身を守るために日本からアメリカに逃れたということのようです。終戦後日本に戻り京都選出の参議院議員にもなっています。

 

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名前の似ている農民労働党とは

 

農民労働党という政党もありました。名前が似ていて紛らわしいのですが、この政党は先ほど触れた日本農民組合を中心にして1925年に結成されています。この政党の書記長は浅沼稲次郎(あさぬまいねじろう)さんというかたです。後に戦後の日本社会党のリーダーとなる方ですね。結成されたもののこの政党、すぐに日本政府から結社禁止処分にされてしまって解散させられています。結成から禁止処分が出るまで3時間しか経過していなかったそうです。この政党の綱領(こうりょう この場合の綱領は政党の綱領ですから政策の基本的な方針を定めているものという意味になるかと思います)が共産主義に通じる内容だと治安当局に判断され結社禁止処分が出たそうです。

 

今回は労働農民党という政党について取りあげてみました。このあと日本には様々な無産政党が出来ていくようですけれどもその先駆けになる政党だったということで歴史教科書でもこの政党について触れることがあるようです。個人的に全く知らない政党でもあったので試しに調べてみました。社会主義、共産主義に対する距離の取り方で意見対立が激化してこの政党はすぐに分裂しています。結成当時大して大きな政党というわけでもなかった中で分裂してしまうというのですから無産階級の人たちの中でも社会主義や共産主義に対して相当強い違和感を持っていた人たちがいたということになります。暴力革命を肯定するかどうかといった点が無産階級の人たちの間での社会主義、共産主義に対する評価の分かれ目だったのでしょうかね。日本政府の「結社禁止処分」という切り札はこの記事を作っていてたびたび出てきました。社会主義、共産主義の勢力拡大を日本政府が非常に憂慮していたことがこういったことからも感じられます。その後社会主義の国でどのようなことが行われたのかということを考えると共産主義を否定した無産階級の人たちや当時の日本政府の判断をあまり否定する気にはなれません。無産階級政党の中でも結社禁止処分されずにその後勢力を拡大する事例も出てくることになります。しかし後に大政翼賛会に吸収されてしまうんですよね。何でそんな流れ(大政翼賛会に吸収)になってしまうのか現在はちんぷんかんぷんですが、出来れば今後記事にしてみたいと思います。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

政党が解散させられたことと少し関係する話を含む記事「大逆事件とは?なぜ起きたのでしょうか?幸徳秋水についても」はこちらです。

政党を立ち上げすぐ解散になる話「日本共産党の結成とは?コミンテルンや堺利彦さんについても」はこちらです。

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