水俣病の原因や会社との関わりはどうだったのでしょう

水俣病の原因

 

水俣病は九州の熊本県や鹿児島県にまたがる八代海(やつしろかい)の沿岸の一部で発生した疾患です。運動障害や聴力機能の障害などは典型的な症状だそうで神経機能の症状が中心となる疾患です。調査が後に詳細におこなわれた結果によりますと西暦1942年(昭和17年)頃には既に水俣病を発症する人が出てきていたようです。しかし熊本県の水俣市で奇妙な病気になる人が出てきていると騒ぎになりだしたのはそれから14年後の1956年頃でした。この水俣病の原因は金属の一つである「水銀」の化合物、メチル水銀(めちるすいぎん)と呼ばれる物質でした。有機水銀(ゆうきすいぎん)という呼ばれ方もされます。このメチル水銀が体内に取り込まれてしまうことで疾患を患うわけですが、その理由は水俣地域で獲れた魚介類にありました。海中に非常に薄い濃度のメチル水銀が存在していたのですが、海中のプランクトンが生命活動をする過程でメチル水銀をプランクトンの体内に取り込むことになり、そのプランクトンを食べて生きる魚が多量のメチル水銀を魚の体内に取り込むことになり、そのような魚を地元の方々が獲って食べることによって海中のメチル水銀濃度からは考えにくい程のたくさんのメチル水銀を体内に取り込んでしまう結果となってしまいました。地元の魚の摂取によって取り込まれたメチル水銀が人体の神経機能を中心に症状を引き起こしたわけです。その後対策が取られ、1997年には熊本県が調査の結果、3年連続で国の安全基準を下回ったことで水俣湾の魚介類は安全になりましたと宣言し現在に至っています。

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原因と会社の関わり

 

海中にメチル水銀が存在していたのが水俣病の原因なわけですが、何故海の中にメチル水銀が存在していたのかというと、チッソ株式会社という会社の工場が水俣地域の海にメチル水銀を含む水を捨てていたからです。アセトアルデヒドという化合物があるのですが、この化合物は様々な工業製品の原料となるもので水俣の工場でその化合物が製造されていました。このアセトアルデヒドが製造される過程で化学反応を促進するために無機水銀が使用されるらしいのですが水銀が関与する時に低い割合でメチル水銀が発生してしまっていたそうです。理論上はメチル水銀が発生しない仕組みだったそうで、長らく工場から捨てられる排水はメチル水銀の対策がおこなわれないままとなっていました。チッソの水俣工場がメチル水銀の発生してしまうアセトアルデヒドの製造方法の採用を終了したのは1968年でした。同じ年に熊本県は水俣病の原因をチッソ水俣工場が出している排水に含まれているメチル水銀であると断定しています。工場のアセトアルデヒドの製造は1932年からおこなわれていたそうなので、メチル水銀が工場から排出されなくなるまでに36年経過しているということになります。

 

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環境に対する対策

 

メチル水銀で汚染された状態が長らく続いたわけですが、上でも触れたように工場からメチル水銀を含む排水が廃棄されなくなりました。ただメチル水銀を取り込んでいる魚が水俣にはいたため、そういった魚を捕獲し処分することになりました。そのような魚を水俣湾に閉じ込めるために仕切り網を水俣湾の入り口に設置したのだそうです。こうしてメチル水銀に汚染された魚が減っていきました。また水俣湾の海底にメチル水銀を多量に含む泥があったのですが、熊本県はその泥を取り除き、その泥を埋め立てるようにしました。1977年から1990年までこの事業が続けられていたそうです。

 

今回は有名な公害の一つ水俣病に関して一部取りあげました。高度経済成長によって日本が発展する中で起きた影の部分を象徴するような出来事ですし、工場が出す水銀が原因であったことは知っていたのですが、どのような対策をおこなったのかなど、あまり詳しいことは知らなかったためこのようなテーマで記事を作ってみました。水俣地域で奇妙な症状の病気が出現していると騒ぎになってから、この病気の原因がメチル水銀によるものだと自治体が断定するまでにかなり期間が経過していることについてはとても意外な気がしました(騒ぎになったのは1956年頃で熊本県がメチル水銀によるものだと断定したのが1968年です)。

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その過程でこの水俣病に関し専門家の中からメチル水銀ではなく、マンガンやタリウムといった物質が原因だという説や有機アミンという物質によるものだといった説、過去に使用された爆薬によるものだという主張があったそうです。真相の究明というのは本当に大変なものですね。ただ熊本大学の研究グループは1959年(騒ぎとなった3年後)の段階で症状は有機水銀によるものだと発表していたのだそうです。この研究グループの結果が速やかに生かされることがなかったのは何故なのだろうと考えてしまいます。排水を捨てていた工場側は熊本大学の考えに対し、同じ年に反論して1968年までメチル水銀を発生させてしまう方法でアセトアルデヒドを生産し続けていたわけです。今回の出来事を調べていて国や自治体の対応が遅いのではないかという印象を個人的には持ちました。日本の産業の発展に大きく関わる企業の責任が問われる話になると、国や自治体の腰が重くなってしまうものなのでしょうか。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

別の時代の公害の話「足尾鉱毒事件とは?とられた対策や田中正造についても」はこちらです。

企業の言い分が優先されているように感じる話「桂内閣の時代に定められた工場法とは?その背景についても」はこちらです。

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