箱館戦争とは?なぜ戦争が起きたかについても
箱館戦争とは
西暦1868年12月(旧暦慶応4年、明治元年10月)に現在の北海道、函館で行われた新政府側と旧幕府側の戦闘が箱館(はこだて)戦争です。この戦闘で旧幕府側が最終的に降伏し、日本の内戦、いわゆる戊辰戦争(ぼしんせんそう)は終わることとなりました。
旧幕府側の役人が幕府の軍艦を新政府側に引き渡すべきところ、4隻を奪い取り、旧幕府側の兵員等約2000名が乗り込んで東北に向かいました。東北地方では奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)側で戦っていた兵員が更に加わり3000名を超える人たちが蝦夷地(現在の北海道)に向かいました。
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北海道の一部を統治していた松前藩という藩があったのですが、松前藩はこの時期新政府側の立場をとっていたため旧幕府勢力は箱館港からは上陸しませんでした。旧幕府側は松前藩の守備が手薄な地域から上陸し箱館の中心部に進軍しました。途中新政府側と戦闘になります。新政府側の兵員の人数が足りなかったからでしょうか、旧幕府軍が勝利しました。旧幕府側は箱館の拠点となっていた城、五稜郭(ごりょうかく)に入ります。これによって箱館は一時旧幕府側が支配することとなりました。
しかし海上での戦闘に敗れ旧幕府側は新政府軍の蝦夷地上陸を許すこととなります。新政府側は8000人ほどの兵員を集め渡島(おしま)半島の日本海側から上陸し箱館に向かって進軍しました。旧幕府側も進軍を食い止めるために箱館に至るまでの間で迎え撃ちましたが敗れる結果となっています。
西暦1869年6月に新政府軍によって箱館中心部が攻撃されます。五稜郭に立てこもっていた旧幕府側は降伏し箱館戦争は終結しました。1869年6月27日でした。
降伏した旧幕府側の首脳部は今回の戦争の責任を問われて新政府側から処刑されるということは無く、投獄されたものの明治5年に釈放されたそうです。
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なぜ箱館戦争は起きたのでしょうか
この戦争で旧幕府側の中心人物だったのは旧幕府海軍の副総裁榎本武揚(えのもとたけあき)さんでした。旧幕府の領地が大幅に減らされることによって旧幕府の家臣たちの多くが徳川家の家臣としてとどまることが難しくなります。たくさんの旧幕府家臣が生活に困るようになることを彼は心配していました。
榎本さんは旧幕府家臣を蝦夷地に移動させ開拓の仕事を与え、生活の基盤を確保しようと考えたのだそうです。その考えを朝廷に伝え、旧幕府勢が蝦夷地に移ることを許可して欲しいとお願いしたのだそうですが、許可は出ませんでした。新政府側は榎本さんの訴えが本音なのか疑ったのかもしれません。
新政府から許しが出ないまま旧幕府側は蝦夷地に上陸しましたが、蝦夷地には新政府側の松前藩が存在します。このままでは自分たちの思い通りに蝦夷地開拓をすることが出来ません。そのため松前藩と戦って松前藩からこの地域の支配権を奪い、その後上陸してきた新政府側の増援勢力とも戦ったということのようです。
ということで蝦夷行きは旧幕府の家臣たちの生活基盤を確保するためという目的があったという説があるようです。ただ家臣たちの生活を守るためというのは口実で、蝦夷地を新政府ではなく旧幕府が統治する新しい国にしようという考えが旧幕府の人たちにはあったのかもしれません。
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日本の内戦、戊辰戦争の最後の戦闘ということもあるので今回は箱館戦争を取りあげてみました。人数的には3000人ほどの勢力ですから新政府軍が本気になって攻めてきたら負けることになると普通は思うのではないか、と感じました。しかし松前藩には当初勝利して箱館を占拠しましたし、状況が好転するかもしれないという希望を持っていたのかもしれませんね。
降伏後旧幕府側の首脳部の処刑を新政府側は求めませんでした。これは大変良い判断だったのではないでしょうか。榎本さんも投獄されましたが、その後釈放され新政府のもとで働くこととなります。政府の役人として仕事をするようになってからは外交分野、教育、経済分野で活躍され華族(日本の貴族階級です)の身分にまで出世したそうです。元々敵側だった人物を華族にするあたり、新政府にも寛容なところがあったのだなと感じました。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※写真は函館の五稜郭です。
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