江戸時代の伊勢神宮の参詣者の数はどれ位だったのでしょう

伊勢神宮の参詣者の数は江戸時代だとどうだったんでしょう

 

伊勢神宮(いせじんぐう)というのは現在の三重県伊勢市に存在する神社です。全国には8万以上の神社があり神社の中でも序列のようなものがあるようなのですが、伊勢神宮はその中でもっとも序列の高い神社として見なされています(全国各地の神社が所属する法人である神社本庁は伊勢神宮を本宗(ほんそう)と表現し神社の中で至高の存在であると位置づけています)。建てられてから2000年以上が経過しているという非常に長い歴史を持った神社ですし歴代の首相も1月に参拝するのが恒例となっていることからもわかるように非常に重要な宗教施設と日本社会では受け止められています。2000年以上の歴史があるわけですから慶長8年、西暦1603年から慶応3年、西暦1863年まで続いた江戸時代にも当然伊勢神宮は存在していました。一般の民衆が伊勢神宮を参拝する風潮は室町時代には既にあったようです。ただ周辺地域の方々がお参りするくらいで全国の人が参拝するというわけではありませんでした。全国の方々が参拝するような風潮が出来たのは江戸時代になってからのようです。江戸時代は長いので時期によって参拝する人の規模も異なるようですが江戸時代初期は年間数万人の参詣者、1700年代前半は年間40万人以上にものぼることがあったようです。1800年代前半も年間20万人~40万人ほどの方々が参詣されていたという指摘があるようです。これは普通の年の参拝者の規模であり、特別な年の参詣者の数はかなり異なってきます。

 

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御蔭年

 

「御蔭年(おかげどし)」と伊勢神宮への信仰を持たれている方々の間で呼ばれている特別な年があります。伊勢神宮は神社の御神体を安置する建物、本殿(ほんでん)を定期的に改築するものなのだそうで、その際御神体を移動させることになります。このような行為は遷宮(せんぐう)と呼ばれています。この遷宮がおこなわれた年の翌年は「御蔭年」と呼ばれており、この御蔭年に伊勢神宮に参詣すると一般の年の参拝に比べてたくさんご利益があると信じられていました。そのため御蔭年に伊勢神宮を参拝する人の数は例年よりもずっと多くなっていたようです。宝永2年、西暦1705年の参詣者は300万人以上だったと言われているそうですし明和8年、西暦1771年の参詣者の数は200万人くらいだったという指摘があります。

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文政13年、西暦1830年の場合は参詣者の数が400万人を超えていたとか500万人にのぼったと言われているようです。上の項目で挙げていた数字とケタが違うことがわかります。江戸時代当時の日本の人口は3000万人前後だったそうですから10%前後の人々が参拝されていたということになります。民衆の方々10人に1人が参拝していたということですね。国民的な流行になった伊勢神宮の参拝は御師(おんし)という伊勢神宮の関係者の方たちが国内各地で食べ物を司る神様、豊受大神(とようけのおおかみ)を農民の方々に広めたことが理由だと言われているようです。食べ物を司る神様であれば農業従事者にとっては日頃栽培している農作物の生育に深く関わってくる神様ということになります。

 

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今回は江戸時代に伊勢神宮を参拝した人々の人数に関して一部取りあげました。歴史の教科書で江戸時代の風習についての部分を読んでいたのですがお蔭参りという項目を読んでいて、人々の間で伊勢神宮に参拝することがどれくらい流行したのか確認したく、記事にしたかったのですが江戸時代の参拝者の数について一般的な関心が強いようですのでこのようなテーマの記事にしてみました。伊勢神宮を参拝したいという人々の願いは非常に強かったようで本人が参拝に行きたくても何らかの事情で困難な場合、自分の代わりに飼っている犬に伊勢神宮まで参詣させていた、などと言う話もあるのだそうです。そういう犬を「おかげ犬」と呼ぶのだそうですが、本当にそんなことをすることが出来るのだとしたら犬って本当に利口ですよね。道中協力してくれる人がいなければ成り立たない話ではありますが、それを考えても大したものです。商人に奉公していた人が無断で伊勢神宮に参拝しに行っても雇い主からおとがめを受けることが無かったなんていう話もあるそうですから伊勢神宮の影響力は相当なものだったということがうかがえます。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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江戸時代の教育機関の数について触れている話「江戸時代の寺子屋は全国でどれくらいの数あったのでしょう」はこちらです。

天皇と江戸幕府の関係について触れている話「江戸時代の天皇と将軍の関係はどうなっていたのでしょう」はこちらです。

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