小牧、長久手の戦いはどのような戦闘結果となったのでしょう

小牧、長久手の戦いの戦闘結果

 

織田信長さんが亡くなった後、柴田勝家さんや信長さんの三男、織田信孝(のぶたか)さんと対抗していた秀吉さんは信長さんの次男と言われる織田信雄(のぶかつ)さんとの連携を強めたようです。しかし柴田さんや信孝さんを倒した後、秀吉さんと信雄さんの関係は悪化。秀吉さんと密かに通じていると疑った自分の家臣を信雄さんが処刑したことをきっかけに秀吉さんと信雄さんの間で戦(いくさ)が始まってしまいます。この戦が小牧・長久手の戦いと呼ばれる戦です。信雄さんは単独で秀吉さんに対峙するのは難しいと考えたのでしょう。徳川家康さんと同盟を結び、この戦に家康さんにも参戦してもらうことにしました。この秀吉さん対信雄さん・家康さん連合の戦闘はどのような結果となったのでしょう。小牧・長久手の戦いと呼ばれる戦は複数の戦闘を含む総称であり、その戦闘の中には秀吉さんの軍勢が優勢だったものもありましたし信雄さん、家康さん連合が優勢だったものもありました。しかし双方とも軍勢の規模が大きかった戦闘で勝利したのは信雄さん・家康さん連合の軍勢でした。そのため大まかに言えばこの戦の戦闘の結果は信雄さん・家康さん連合側の勝利だったと言えます。戦闘の結果はそうだったのですが、戦闘で敗れた形の秀吉さんは早々に信雄さんと和睦し、この戦で秀吉さんの基盤を揺るがしてしまうような致命的な損害を出すようなことはしませんでした。

 

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秀吉さんの配下が家康さんの領地を攻めようとします

 

家康さんが愛知県東部にあたる自分の領地、三河から尾張、現在の愛知県西部にあたる地域の北部に軍勢を率いてきて秀吉さんの軍勢と対峙するのですが、秀吉さんの配下の武将の方々が一つの作戦を強行します。家康さんの軍勢が尾張北部に来ているので尾張の東隣である自分の領地、三河は兵員が少ない、手薄となった状態だろうから一部の軍勢を三河に派遣して今の内に攻撃してしまおうというものでした。秀吉さん配下の複数の武将が軍勢を率いて三河地方目がけて移動します。この秀吉さん側の軍の動きを察知した家康さん側は移動中の秀吉さんの軍勢を急襲します。この時複数の戦闘がおこなわれるのですが、その中には秀吉さん配下の堀秀政さんの軍勢が家康さん配下の榊原康政さんの軍勢を圧倒し逃走させた桧ヶ根(ひのきがね)の戦いと呼ばれる戦闘もあったようです。しかしその他の戦闘では信雄さん、家康さんの軍勢が秀吉さん側の軍勢を破りました。

 

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長久手の戦い

 

複数の戦闘がおこなわれた後に双方とも9000名ほどの軍勢で尾張の長久手、仏ヶ根(ほとけね)などと呼ばれる地域において対峙することとなります。ここでの戦闘が最も大きな規模となったようです。この戦闘で秀吉さん配下の軍勢は結果的に森長可(もりながよし)さん、池田恒興(いけだつねおき)さんといった軍を率いる武将を死なせてしまう結果となります。この戦闘で秀吉さん側の軍勢を率いた主要な武将が命を落としてから家康さんたちの軍勢が優勢となってこの戦闘は結果的に家康さん側の軍勢が圧勝したようです。このような状況を知り秀吉さんの軍勢の本体が家康さんの軍勢を討つため尾張の北部から南下してきたのですが、家康さんの軍勢は秀吉さんの本体の軍勢と直接対決するようなことはせずに秀吉さんの軍勢の思惑に反してどんどん北上し小牧山城という尾張の北西部にある城に戻ってしまいました。家康さんたちの軍勢を攻略するための決め手に乏しくなってしまった秀吉さんは大坂に戻っていきます。その後秀吉さん配下の軍勢が尾張の西側にある蟹江という城を攻撃することはありましたが家康さんの軍勢はその攻勢を撃退することに成功し勢力を弱めるようなことはありませんでした。その後秀吉さんと信雄さんの間で和睦となりこの戦は終了となります。

 

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今回は小牧・長久手の戦いについて一部取りあげました。賤ヶ岳の戦いの後に発生する大きな戦となると、やはり秀吉さんと織田信雄さんが対立することで始まってしまい、後の江戸幕府の将軍となる家康さんが参戦する小牧・長久手の戦いが有名なのだろうと思いますし、強い秀吉さんの軍勢が敗れる結果となる非常に珍しい出来事でもあるので記事にしてみようと思いました。この戦の流れを見てみると家康さんの軍勢は敵の裏をかく、想定するのとは違う動きをして相手をほんろうするのが得意だったということみたいですね。そういった事をするために必要となる相手の動きを早く察知することや、早く軍勢を動かすという点でも優秀だったということなのでしょう。勝てる戦をして相手の本体との正面衝突となるような不利な戦いは極力避けるといったやり方は確かに戦上手という感じがします。秀吉さんはこの一連の戦いの後再び家康さんを武力征伐しようとしなかったようですから徳川勢の戦闘能力を相当警戒していたということがうかがえます。結果的に別の方法で秀吉さんは家康さんを家臣とすることに成功しているわけですから秀吉さんは実際のいくさ以外の外交面でも能力が高かったということなのでしょう。相手の能力を正確に評価し無理に戦いにうったえずに自分にとって有利な状況に持っていくことが出来る所はさすがといった感じがします。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

家康さんの関東移動について触れている話「秀吉さんが徳川家を関東に配置した理由は何なのでしょう」はこちらです。

関ヶ原の後に起こる豊臣家の経済力の変化について触れている話「関ヶ原の戦いのあと豊臣家の領地はどうなったのでしょう」はこちらです。

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