平安京に朝廷の拠点を移したのは何が理由だったのでしょう
都を平安京に移した理由
都を平安京、現在の京都市に移したのは延暦(えんりゃく)十三年、西暦794年といわれています。社会や歴史の授業で教わる有名な出来事の一つですし、年号のゴロ合わせも「鳴くよ(794)ウグイス平安京」がすごく普及しているのではないかと思いますがいかがでしょうか。その前は平城京という都が奈良にあったことも有名ですが、その平城京に都が移ったのが和銅(わどう)三年、西暦710年です。平安京に移ってからは相当長い間、都は今の京都市の場所のままでしたが、それに比べ平城京はそれ程使われなかったわけです。都を移動させるというのは大変な事業だと思いますが、なぜそんな短期間に都を変えてしまうような、見方によっては非効率なことを時の権力者はしたのでしょう。しかも実際には平城京から直接平安京に都を移したのではなく、その間に長岡京(ながおかきょう)という別の都に一度移っておきながら(長岡京に移ったのは延暦三年、西暦784年なのだそうです)たった10年で平安京にまた都を変えるということをしています。平城京から都を移したことについては政治に関して影響力を持っていた勢力の干渉を弱めるためだったと言われているようですが、長岡京から平安京に都を移した理由は亡くなられた方の恨みを恐れたからという指摘が多いようです。
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政治への干渉を排除したい
平城京が都となっていた頃、政治をおこなっていた朝廷に対し強い影響力が一部の勢力にあったと言われています。平城京の存在した奈良という場所の関係で仏教に関係する人々の発言力はとても大きかったそうです。また平城京から都を移した時の天皇、桓武天皇(かんむてんのう)とは異なった血筋の皇族、天武天皇(てんむてんのう)系の方々やそのような方々との関係が強い貴族の方たちの影響力も強かったという見方があるようです。天智天皇(てんじてんのう)系の皇族だった桓武天皇はそのような一部勢力の政治への介入を快く思っていなかったようで都を奈良から移動させることによって状況を変えようとしたと言われています。こういった桓武天皇の政策に反発する勢力があったということを示す出来事として都を移す事業に深く関わった高官、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)というかたが延暦四年、西暦785年に暗殺されるという事件があります。
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恨みが恐ろしくて
桓武天皇にとって重要な人材が暗殺されたことで関与の疑われた人々が罰を受けることになります。優れた和歌を残したことで有名な方の一人に大伴家持(おおとものやかもち)という方がいますが、この人も藤原種継暗殺に関係したという理由で罰を受けています。亡くなった直後に事件への関与を疑われたようですが埋葬されることが許可されないという目に遭ったようです。また皇太子の立場にあった、桓武天皇の弟にあたる早良親王(さわらしんのう)というかたも事件への関与が疑われ皇太子の立場から引きずりおろされ流刑処分となってしまいました。新たな皇太子には桓武天皇のお子さん、安殿親王(あてのみこ)という方が就任しました。早良親王は島に流される目的で移動中に絶食して抗議し、それが理由で間もなく亡くなられたようです。早良親王が亡くなったあと桓武天皇にとってかかわりのある方々がたて続けに亡くなったと言われています。母親にあたるかたや奥さんなどです。母親にあたる高野新笠(たかののにいがさ)という方は西暦790年に亡くなっています。桓武天皇の奥さん、藤原旅子(ふじわらのたびこ)というかたは西暦788年に亡くなっていますし、正妻にあたる皇后、藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)という方も西暦790年という似た時期に亡くなられています。息子さんである皇太子、安殿親王さんも御病気になったとかで専門の方にみてもらったら早良親王のたたりによるものだと判定されてしまったそうです。今の世の中では迷信と思われることでも当時の世の中では真剣に憂慮されたようで、呪い、恨みが蔓延した長岡京を都としたままでは良くないということで新たな場所に都を移すことにしたというわけです。
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今回は平安京に遷都した理由について一部取りあげました。移った年号は憶えていたのですが移した理由については全然知らず、理由を確認したかったのでこのようなテーマにしてみました。恨みが理由などと言う話は社会や歴史の授業で習った記憶が無いのですがこの記事を閲覧されている方々はいかがでしょうか。現代の人々が科学を信奉するように古代の人々が風水や陰陽道を信じきっていたのなら都を移動させる根拠にも確かになるのかもしれません。今の時代を生きている私から見ると奇妙に感じるところもないわけではありませんが、不可思議なことをすべて頭ごなしに否定できるかと問われればそんな確信をもって否定できるような立場でもありません・・・。当時の日本では怨念を恐れるという風習が非常に強かったということを今回の記事を作っていて知ることが出来ました。早良親王が藤原種継さんの暗殺に関与したというはっきりとした証拠は特に無かったようです。身に覚えのない罪を着せられて罰を科されるということは確かに強い恨みを生んでしまいますよね。現在の世の中でも冤罪は発生してしまいますし、その点は当時も同じだったことでしょう。罪というほどではないにしても大して根拠もなく人を疑うということも大きなトラブルになるかもしれませんので本当に気を付けたいものです。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
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