710年、平城京に遷都されたのはなぜだったのでしょう
なぜ平城京に遷都
平城京(へいじょうきょう)に都が移ったのは西暦710年だと社会や歴史の授業で教わった記憶はありますが、どの天皇の時に都を移したのかよく覚えていませんでした。元明天皇(げんめいてんのう)という方の時代に平城京に移したのだそうです。このかたは女性の天皇で、大仏を造るよう指示したことで有名な聖武天皇の二代前の天皇です。平城京に移る前の都は藤原京(ふじわらきょう)というところでした。藤原京は現在の奈良県の中部にある橿原市(かしはらし)や明日香村(あすかむら)にあたる地域に存在していた都です。この藤原京から平城京に移った和銅(わどう)三年、西暦710年は奈良時代の初めとなる区切りの年にもなっています。平城京への遷都はそれだけ時代が変化することを象徴した出来事だったと解釈されていることになります。とはいっても都を移すなどということは大変な作業に決まっています。当時の政権にとって余程の理由が無いとやらないようにも思いますが、どうして元明天皇の時代に遷都を実施したのでしょう。遷都の理由がはっきりと定まっているわけではないようですけれど、元明天皇の表明とされた内容には重視されていた占いなどで平城京はとてもいい場所に存在していることが言及されているそうです。また感染症被害を避けることや政治権力を巡る思惑、理想とされた都の姿に作り変えるためなどといった説もあるのだそうです。
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元明天皇によると
新たに移ることとなった都、平城京は当時政権で重視されていた思想、中国大陸の古代に誕生した思想である風水(ふうすい)にあてはめればとても良い地域に存在していることになるのだそうです。具体的に言うと、都が存在する場所の東の方角に青龍(せいりゅう)を象徴する川、西の方角に白虎(びゃっこ)を象徴する大きな道、南の方角に朱雀(すざく)を象徴する湖や沼のようなもの、北の方角に玄武(げんぶ)を象徴する山か丘のようなものが存在するというのは風水の見地からとても評価されました。青龍、白虎、朱雀、玄武というのは古代から中国大陸などで四方の方角を司る偉大な霊、神様のようなものと崇められている存在です。また平城京の周囲には三つの山があり、南側に山が無く開けているのは都を置くのにふさわしい場所と古代中国大陸では言われていたのだそうです。元明天皇が事細かく説明しているわけではありませんが、今触れた方角にまつわる四つの神、三つの山については短い言葉で言及しています。古代から尊重されてきた思想に照らし合わせると新たな都を置く平城京の場所は大変理想的な場所だといった内容を天皇がお話しになったわけです。
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他の説
他の説については元明天皇が表明した内容に含まれているわけではないのですが、藤原京の場合、周辺が標高の高い土地となっていてうまく藤原京で使用した水を排水することができず、不衛生な状態につながって疫病が流行しやすい環境だったからといった衛生面での理由を指摘する見方もあるようです。他には当時中国大陸に存在していた大国、唐(とう)の都、長安の姿と藤原京の姿に違いがあり、皇帝が政治をおこなう都のあるべき姿としては藤原京のように都の中央に天皇の宮殿が存在する構成よりも都の北側に宮殿が存在する唐の都の姿のほうが理想的だと考えられたから、などといった見方もあるようです。これは君主たる者、北極星を背にし(つまり北の方角に背中を向けて)、南を向いて政治をおこなうものだといった古代中国大陸の思想が背景にあるようです。平城京では宮殿が都の北に位置しています。別の説には藤原京で政治がおこなわれていた時代の政権に強い影響力を持っていた勢力を遠ざけて、藤原不比等(ふじわらのふひと)という人を中心とした藤原家の勢力が更に政治に関与することが出来るようにするため、といった権力を手に入れるための魂胆だったといった指摘もあるようです。
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今回は平城京に遷都した理由について一部取りあげました。当時の政権にとって大きな事業ですし、たくさんの予算を必要とするわけですからそれなりの理由があったに違いないはずですが、どうして都を移したのか学校で教わった記憶があまりないので確認してみたくなりました。理由がはっきりとわからない状態なので学校教育でも説明のしようがないということだったのでしょう。思いがけず今回は風水の知識をほんの少しですが頭に入れることになりました。どうして東に川があり、西に大きな道があり、南に湖、あるいは沼のような水がたくさんたまった場所があって、北に山か丘があると理想的なのかよくわかりませんが、「気」という観点からすると理想的なのだそうで。風水に従う場合とそうでない場合ではどれくらい違いがあるものなのか・・・。何かわかりやすい実例でもあると個人的には関心も増すような感じもするのですが。しかし当時の発言力の大きな人たちにとっては大変重要なことだったからこそ元明天皇もわざわざ表明の中で触れているわけです。中国の王朝に限らず、古代の日本でも風水という思想はすごく影響していたのだということを今回の記事を作っていて知ることが出来ました。現在でも人によっては風水をすごく重視しているようですし、効果、影響があるものなのでしょうかねぇ・・・。人によって意見が分かれるところなのでしょう。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
別の時代に都を移転した事について触れている話「平安京に朝廷の拠点を移したのは何が理由だったのでしょう」はこちらです。
奈良時代中におこなわれた遷都について触れている話「聖武天皇が指示した遷都はどういった順番だったのでしょう」はこちらです。
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