豊臣秀次さんが切腹をした理由は何だったのでしょう
豊臣秀次さんが切腹した理由
桃山時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに豊臣秀次(とよとみひでつぐ)さんが切腹してしまった理由について書いてみたいと思います。豊臣秀次さんは別の記事でも触れましたが織田信長さん亡きあと圧倒的な武力によって天下統一、国内の武将を全て従わせる体制を築くことに成功した豊臣秀吉さんの甥(おい)にあたるかたです。秀吉さんのお姉さんのお子さんなのだそうです。秀吉さんの息子、鶴松(つるまつ)さんが天正十九年、西暦1591年に病のため亡くなられ、秀吉さんは自分に男子が誕生することはもう無いと判断したのか身内の秀次さんを後継者に指名し自分も担当した朝廷の役職、関白を引き継がせました。秀次さんが切腹という方法で自害されたのはそういった大変重要な役職を退いた直後です。非常に身分の高い立場にあった秀次さんが自害することになった理由は何だったのでしょう。実質的に政治的な権限を持ち続けていた秀吉さんが秀次さんにそのような責任の取らせ方をしたと見られているようです。後継者に指名した当事者である秀吉さんが秀次さんにそのような指示を出した理由については以下の項目で補足してみます。
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謀反の疑い
具体的には秀次さんが秀吉さんに対し謀反を企てていたという疑惑があったから、というのが理由のようです。秀吉さんの側近の方々が秀次さんのもとを訪れ、そのような疑惑が存在することを伝え秀次さんに釈明を求めるという出来事が突然起きました。謀反を計画したことなど無いと秀次さんは無実を主張し、そのことを誓紙(せいし)、神仏を間に立てて約束をするためにしたためる文書のことですが、そういった潔白を主張する書類を作成したりもしました。秀次さんの誓紙による釈明でこの疑惑が晴れることは無く、秀吉さんから直接面談するため秀吉さんの当時の拠点、京都の伏見(ふしみ)に出向くよう伝えられますが面会は実現しませんでした。面会できるよう待機していた伏見の屋敷で秀次さんは秀吉さんから高野山(こうやさん 和歌山にあります)へ移動するよう指示をされてしまいます。指示に従い日本仏教の重要な場所である高野山に入った秀次さん。出家した状態になります。これは出家して謀反の企てに関し許しを請うよう秀吉さんが秀次さんに求め、それで許してやろうということではありませんでした。秀次さんが高野山に移動してから一週間もたたないうちに今度は切腹の命令が出てしまいます。秀次さんは潔白であることを主張したものの聞き入れられることは無く、このような大変厳しい判断が下されました。秀次さんは命令に従い自害されこの世を去っています。
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秀頼さんの存在
本当に秀次さんが謀反を企てていたのかという点については懐疑的な見方が多いようです。その疑惑というものが中国地方の有力な武将、毛利輝元さんと秀次さんの共謀ということだったようなのですが、別に毛利輝元さんは今回の秀次さんのような制裁を科されてはいません。秀吉さんが輝元さんにそんなことをしようものなら大きないくさになってしまうところなのでしょうけれど。そもそもそのような疑惑は単なるうわさに過ぎず、関白だった秀次さんを権力の座から引きずりおろすためにでっち上げられただけだといった指摘が多いようです。自分には男子が誕生することなどもう無いと考えていた秀吉さんのもとに秀頼さんが誕生して、自分が死んだあと秀次さんと秀頼さんの間で権力をめぐる争いが発生してしまわないか心配し、秀頼さんの安泰のため自分が生きている間に秀次さんを亡き者にしようとしたのだろうというわけです。秀頼さんを案じて秀吉さんは死んでいくわけですが、結果的には秀頼さんは徳川家に滅ぼされることとなってしまいます。
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今回は豊臣秀次さんの自害について取り上げました。先日秀吉さんが建設を命じた豪勢な建物、聚楽第(じゅらくだい じゅらくてい)に関する記事を作ったのですが、その施設を短期間で破壊することになったのは秀次さんの件が大きく影響しているようだったので、どうして秀次さんがお亡くなりになるような事態になったのか理由を確認してみたく今回のようなテーマの記事を作ってみることとしました。秀次さんの謀反の企てについて潔白だというのが事実なのだとしたら、これによって秀吉さんの評判というのは相当悪くなったのではないでしょうか。秀次さんの恨みも大変大きくなったことでしょう。息子可愛さに甥とその関係者を死に追いやるということなら世の人々に理解してもらえる話とは思えません。秀次さんだけではなく秀次さんと婚姻関係にあった方々、お子さんたち、秀次さんの側近も命を奪われることになりました。自分が後継者に指名した人物に対しここまでやってしまうものなんですね。子供を持つと周りが見えなくなってしまうというか客観的に自分がやっていることを判断出来なくなってしまうものなのかなぁなどと考えさせられました。そこまでして守ろうとした秀頼さんが大坂の役で家康さんたちの勢力に滅ぼされてしまうというのも秀吉さんがおこなったことの報いなどと見る人もいるのかもしれません。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
信長さんの孫にあたる人物について触れている話「信長さんの嫡孫を秀吉さんはどのように待遇したのでしょう」はこちらです。
織田家家臣内の争いについて触れている話「秀吉さんと柴田勝家さんはなぜ賤ヶ岳の戦いをしたのでしょう」はこちらです。
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