武田信玄さんが父親を追放した理由は何だったのでしょう
武田信玄さんが父親を追放した理由
戦国時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに武田信玄(たけだしんげん)さんが自分の国、甲斐から父親、武田信虎(たけだのぶとら)さんを追放した理由について書いてみたいと思います。戦国時代の日本でその強さが評判だった武将、武田信玄さんですが、彼を重要な登場人物として制作された公共放送のドラマも多いことから、彼が実の父親を自国から追い出したという出来事はたくさんのかたが御存じの話かと思います。別にこの出来事はフィクション、架空の話、でっち上げではなく実際に起きたことで、追い出された後の信虎さんは隣国の当時同盟を結んでいた今川義元さんの領地で生活することとなりました。この追放話はもちろん信玄さん個人で出来るわけもなく多くの家臣の協力、兄弟の了承もあったそうです。甲斐の国を一つにまとめ上げたという功績のある人物、信虎さんが息子と家臣団に見放されてしまったのはどういった理由によるのでしょう。親子関係が良好ではなかったことや家臣団の中に不満がたまってしまうような政策をとっていたからといった指摘が多いようです。
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信虎さんと信玄さんの折り合い
豊臣秀吉さんとは違って信虎さんにはたくさん息子さんがいましたが、御長男は幼い年齢で亡くなっており嫡男(ちゃくなん)、家督を継ぐ立場の息子さんは次男の信玄(晴信 はるのぶ)さんでした。しかし信虎さんは嫡男の信玄さんとあまり折り合いが良くなかったようです。信虎さんが信玄さんのことをあまり可愛がらなかったといった状況であって、信玄さんが父親を一方的に嫌って関係が悪かったということではないようです。気性や外見、上に立つ者としての器などといったことを身近で信虎さんが見ていて、信玄さんのことを他の息子さんに比べあまり評価していなかったといった見方は多いようです。具体的に言うと信虎さんは信玄さんの弟である信繁(のぶしげ)さんのことをすごくかわいがっていたと言われており、本当かどうかはわかりませんが信玄さんを嫡男の立場から外し信繁さんを嫡男にしようとさえしたなどといった話も残っているそうです。信玄さんとしては嫡男の立場から外されるのは避けたいでしょうから信虎さんを武田家当主の座から退かせたいという気持ちがあったとしてもおかしくはないのでしょう。そういった信玄さんの立場に同情する家臣もいたかもしれません。
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無理のある政策
信虎さんは支配領域を拡張することに熱心で、いくさをたくさんしていました。しかしいくさをするためにはお金が必要になります。信玄さんの時代ほど甲斐の地域で盛んに金が採掘されていたわけではなかったようですし、いくさの費用は領民から徴収する税負担によって賄われることになります。度重なる戦の負担は領民や信虎さんの家臣たちにとってかなり厳しいものだったそうです。天文(てんぶん てんもん)九年、西暦1540年には大雨や非常に強い台風といった災害が重なり甲斐で深刻な飢饉も発生していました。苦しい状況の領民に重い税負担を課すということであまり信虎さんの評判は領民の間で良くはなかったといった内容を書いている当時の文献もあるようです。所有する領地の収穫物の一部を収入とすることになる信虎さんの家臣たちも領民同様経済的に厳しくなります。そういった状況の中、他国と戦を重ねる信虎さんのやり方にはついていけず、廃嫡の話がまことしやかにささやかれるような嫡男、信玄さんと利害が一致し、信虎さんを武田家の領地から追放するといった方針に家臣たちも結果的に同調した。そういった見方が多いようです。
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今回は有名な武将、武田信玄さんが父親の信虎さんを自国から追放した理由について一部取り上げました。この出来事は教科書に載っているような話ではありませんでしたが、過去に信玄さんの出てくるドラマの中で重要な出来事として取りあげられていたのを見た記憶がありました。ただ父親を追放するという行為をどうして信玄さんが選択したのかについて、どういった演出がされていたのかはよく覚えておらず、理由を確認してみたくこのようなテーマの記事にしてみた次第です。親も人間ですから完全な存在ではありませんので誕生した子供たちに対する愛着の差が生じてしまうということはやむを得ないことなのかもしれません。しかし家督を継がせないといった今回の記事で出てくるような話まで深刻化してしまうと物騒な結果を招いてしまうものなのかもしれません。すごく素行の悪い人物なので家督を継がせないということなら、家臣など周囲の人々も「仕方ないですね・・・。」ということになるのかもしれませんが信玄さんの場合は当てはまらないのでしょう。今回は家臣の方々も信玄さんについてしまっていますので信虎さんから相当人心が離れてしまっていたことを示しているようにも感じます。指導者の立場であっても支持が無くなると、本当にあっけなく失脚してしまうものなのですね。指導者だからといって好き勝手出来るものではありませんよ、配下の者たちとちゃんと協調して舵取りをしないと、ついてくる人がいなくなりますよ、そんなことが汲み取れるような出来事なのかもしれません。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
今回使用させていただいているのはさくらちっぷさんによる写真ACからの写真です。
信玄さんと有力大名、今川家との関係について触れている話「有力戦国大名である今川義元さんと武田信玄さんの関係は」はこちらです。
戦国の雄、武田家の滅亡について触れている話「有力戦国大名の武田家が滅亡した理由は何だったのでしょう」はこちらです。
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