徳川綱吉さんの時代に財政悪化した原因は何だったのでしょう

綱吉さんの時に財政悪化した原因

日本の江戸時代の歴史や江戸幕府の将軍の政治について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では江戸時代の一時期将軍を担当した人物、徳川綱吉(とくがわつなよし)さんの時代に幕府の台所事情が悪くなってしまった、財政悪化した原因について私なりに書いてみたいと思います。徳川綱吉さんは江戸幕府の五代目の将軍です。彼が将軍職に就任したのは延宝(えんぽう)八年、西暦1680年で宝永(ほうえい)六年、西暦1709年に亡くなられるまでずっと担当されています。綱吉さんの政策で有名なものとしては以前このサイトでも触れたことのある生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)があります。ただこの方の治世のときに幕府の財政が悪化、それまでと比べて幕府の収入が減り、支出が大きくなってしまったということもそれなりに知られていることのようです。高校の日本史の教科書でも触れられたりしています。実際財政が悪化したことでそれに対応するため幕府は世の中に流通する貨幣の質を変更するようなこともしました。綱吉さんが将軍だった当時ももちろん江戸幕府は大きな影響力を持っていたわけですし自分たちに有利な制度を設けることによって経済的にかなり余裕があってもよさそうなものですが、江戸幕府が経済的に辛い状況になってしまった原因はどういったところにあったのでしょう。宗教的な理由による出費朝廷にかかわる待遇の改善、将軍就任以前に江戸で発生した大規模な火災被害に関する復興といったことが支出の増大理由としてよく指摘されているようですし収入の減少としては幕府が所有している貴金属を産出する鉱山での業績の低迷について挙げられることが多いようです。

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支出が増えました

綱吉さんは仏教寺院や神道施設に経済的な支援を数多くしました。よく名前が挙がるのは綱吉さんの母親が強く希望した結果建立されたと言われる現在の東京都文京区にある護国寺(ごこくじ)や進言によって生類憐みの令という法令を綱吉さんが作るきっかけにもなったと言われる真言宗のお坊さん、隆光(りゅうこう)さんが住職を務める護持院(ごじいん)です。護持院は建立されたもののその後火災で焼失してしまいました。現在の東京都千代田区神田に建てられていたのだそうです。他にも有名なお寺である奈良の東大寺や法隆寺に関連する施設を整備したり伊勢神宮を始めとした神道施設の整備も支援しました。また綱吉さんが儒教の教えを重視して湯島聖堂を新たに建てたことも有名です。これら以外にもたくさんの宗教関係施設に対し経済支援をおこなったため出費も自ずと増えていくこととなりました。また長らくおこなわれていなかった朝廷の儀式を再びおこなえるよう積極的に支援しており、天皇家の領地を2万石から3万石に増やすなどといった経済的利益の提供もしました。また明暦の大火(めいれきのたいか)という明暦(めいれき)三年、西暦1657年に江戸で発生した大規模な火災の復興にも多額の費用をあてなければなりませんでした。綱吉さんが将軍になるよりもかなり前に発生した火災ではあるのですが幕府の拠点である江戸城ですらかなりの被害に遭っており、江戸城の本丸(ほんまる)、城の中心となる設備の再建のために幕府は90万両以上もの大金を使わなければなりませんでした。1両が今のお金に換算して大体10万円だとしますと江戸城の再建で900億円以上はかけていることになります。江戸の街の復興もしなければならなかったでしょうし相当な負担であったことでしょう。

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収入の状況

江戸幕府は国内のたくさんの土地を天領、幕府の領地として支配していました。多くの土地を持っているため、その土地から生産されるお米などの農作物に課す年貢などの税は大変な規模になります。しかしたくさんの領地を持っているもののその領地をさらに大きく増やせるわけでもありませんので(幕府の領地を増やすためには他の大名から領地を取りあげなければなりません。そんなことは容易にできるわけがありません。場合によってはいくさになるかもしれませんので)、領地から得られる税収入はそれ程増加が期待できるわけではありませんでした。他の幕府の収入としては、よく挙げられるのが金や銀などといった貴金属を鉱山から産出することによって得られる利益です。国内には複数の鉱山があり江戸幕府が直轄、自分たちの管理下に置いていました。産出される金や銀は幕府の財政に貢献したのですが綱吉さんが将軍を担当していた頃は以前に比べて金や銀の産出量が減っていたようです。金を産出する鉱山としては佐渡金山(さどきんざん)が有名ですが、県立新潟中央高校の余湖明彦さんが作成された「佐渡金銀山の価値と魅力」という資料によりますと江戸時代の初期には佐渡の鉱山から毎年8万3000両ほどの金銀が産出されていたそうです。しかしその資料によれば1620年から20年の間に8000kgの金が産出されたもののその後産出量は次第に減り、綱吉さんが将軍を担当する1680年代は1680年からの20年間で3000kg強ほどの量しか産出されなかったようです。1620年から20年間の産出量の半分以下です。また銀を産出する鉱山として生野銀山(いくのぎんざん)や石見銀山(いわみぎんざん)が有名ですが、生野銀山の場合は1620年代から1630年代にかけて銀がたくさん産出されたものの1650年代以降は減少傾向になり、石見銀山も1620年代から産出量が減少し始めていました。こういった事情から支出の増加に比べ収入を増やすことは困難でした。

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今回は江戸幕府第5代将軍、綱吉さんの時代に幕府の財政が悪化した理由について取り上げました。以前綱吉さんについては生類憐みの令の件で記事を書いたこともありましたが、綱吉さんについては浪費などで財政が悪化したといった点もよく指摘されるそうです。先ほども触れましたがそのような事情が貨幣の質に影響を与えて世の中の物価を大きく変動させてしまう要因となったと言われていますので財政の悪化についてもう少し確認してみたく、それによって多額の出費は避けがたいものであったのかどうなのか自分なりに考えてみようと思い今回のようなテーマの記事にしてみました。神社仏閣の整備に関しては将軍の考え一つで切り詰めることも可能だった分野なのかもしれませんが、火災被害の復興は統治上お金を出さないで済む話ではなかったのかなという気がします。江戸の復興が停滞したら幕府のおひざ元の民衆の不満がたまってしまうでしょうし、混乱してしまっては幕府にとっても不都合なことが出てきてしまうでしょう。そういったことからも当時の火災というのは消火技術も進んでいなかったのでしょうから今以上に統治機関の屋台骨を揺るがしてしまいかねない大変な出来事だったのだろうと改めて考えさせられる機会となりました。神社、仏閣の整備に多額のお金をつぎ込んだ背景には生類憐みの令と同様に綱吉さんに跡継ぎが誕生するようにとの願いが込められていたのかもしれません。ご利益を期待したうえでの大盤振る舞いなのだとしましたら、財政悪化が物価高に繋がったわけですし宗教的な理由による経済的行為が思いがけず結果的に世の中の人々を苦しめることになってしまう場合もあるということになります。身の丈にあった、ほどほどの出費で済ましておくようにしましょうといったところでしょうか。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では熊澤充さんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

第二次世界大戦後の日本で起きた物価上昇について触れている話「戦後の日本でインフレが発生した理由は何なのでしょう」はこちらです。

江戸時代に発生した暴動について触れている話「江戸時代の打ちこわしとはどのようなものだったのでしょう」はこちらです。

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