浜口雄幸首相が狙撃された事件とは?事件後の容体についても

浜口雄幸首相狙撃事件とは

 

浜口雄幸首相狙撃事件(はまぐちおさちしゅしょうそげきじけん)とは西暦1930年(昭和5年)11月14日に当時内閣総理大臣であった浜口雄幸さんが東京駅で拳銃によって狙撃され重傷を負った出来事です。浜口首相は岡山県で行われる軍事演習の視察と昭和天皇の行幸に付き添うことを目的に列車に乗る予定でした。その浜口首相に佐郷屋留雄(さごやとめお)という人物が接近し所持していた拳銃で狙撃してしまいます。浜口首相の意向で一般利用者に迷惑をかけたくないという理由から一般利用者の立ち入り制限をおこなっていなかったことで佐郷屋に狙撃する隙を与えてしまいました。腹部に銃撃を受けたものの、浜口首相は東京帝国大学の病院に搬送され何とか一命を取り留めます。

 

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狙撃事件後の浜口首相の容体

 

浜口首相は入院加療が必要となり、その間首相職を務めることはとても無理な状態でした。浜口首相が療養している間は幣原喜重郎外務大臣が臨時で首相の代理を務めることとなります。翌年1931年1月に病院を退院したものの、状態は不安定でした。結局4月に状態の悪化が理由で再手術となったようですが、回復には至らず8月に感染症で亡くなられています。1月に病院を退院した後、衆議院において野党側からまだ首相職であった浜口さんに対し国会での答弁が強く要求され、国会の審議停滞を憂慮した浜口さんは相当無理をして3月に議場へ出向き答弁を行いました。その後容体は悪化したそうですから国会答弁は浜口さんの健康状態に影響したかもしれません。浜口さんは4月に首相職を辞任しました。浜口さんの後に首相を担当したのはそれ以前に首相を務めたこともある若槻礼次郎さんでした。

 

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佐郷屋留雄について

 

浜口首相を狙撃した佐郷屋留雄という人物は裁判によって1933年死刑判決が言い渡されたものの、1934年に恩赦が適用され無期懲役に減刑され、1940年には出所する結果となりました。その後複数の民族主義者団体で指導者として活動しています。1972年に死亡しました。犯行を行った当時は24歳でした。浜口内閣は金解禁を行えば景気が良くなるようなことを言っていたにもかかわらず、反対に不景気になり内閣発足時に主張していた通りにならなかったことや、これはあくまで佐郷屋の主張ですが、海軍軍令部が反対しているままであるにもかかわらず、ロンドン海軍軍縮会議でアメリカ、イギリスに譲歩して海軍軍令部の希望よりも少ない軍艦数で条約調印に踏み切り、統帥権を犯したこと、以上のような点が犯行動機だったようです。

 

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今回は浜口雄幸首相が狙撃された出来事を取りあげてみました。以前にも政友会総裁で首相を務めていた原敬さんが東京駅で鉄道員に襲撃され命を落とされた出来事について原さんの記事の中で触れたことはありました。暴漢による襲撃によって政権が倒されてしまうのは大変異常な事態ですし、この出来事が後の政治にどれくらい影響を与えたものなのか気になったため記事にしてみました。浜口さんの内閣が退陣した後、浜口さんが所属していた政党(民政党)の若槻さんが首相となりました。この若槻さんの内閣の時に満州事変が起きてしまうんですよね。当時の内閣ではなかなか軍を抑えることが出来なかったようですが、浜口さんが襲撃されていなかったなら満州事変への対応も違うものになっていたのでしょうか。浜口さんは相当信念の強い政治家だったそうですから内閣と軍の対立が強まって、そういった理由でもますます命を狙われることになってしまったかもしれません。たった一個人の過激な行為が政権を左右してしまうなどということはあってはならないはずですが、それが起きてしまうわけですから本当に恐ろしい話です。今回の場合何者かが犯行を指示したのでしょうかね。当時の政府は社会主義者、共産主義者に対しては監視を強めていましたが、過激な民族主義者、国粋主義者については対応が甘かったのでしょうか。このような事件が過去の物だと言えるような世の中であってほしいと思いますし、治安を守る方々の活躍に期待したいところです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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