日本の帝国議会に存在した貴族院とは?

貴族院が誕生したのは

 

貴族院(きぞくいん)は大日本帝国憲法(明治憲法)が西暦1889年(明治22年)に制定された後の1890年から開かれることとなりました。衆議院が開かれた年も1890年となります。

 

貴族院とは

 

大日本帝国憲法によって日本の議会(帝国議会)として貴族院と衆議院という二つの議院を開設することとなりました。衆議院は「国民の代表」の議会という意味を持ち、貴族院には「国民の代表」という意味は無く当時存在していた身分、華族などに象徴される「階級の代表」によって議論される議会という意味を持たせていました。このような意味合いの議会であったため国民の選挙によって貴族院の議員が選ばれるような仕組みにはなっていませんでした。衆議院と貴族院どちらかが優位だったというわけではないようです。議会なわけですから、階級の代表者である貴族院の議員さんたちは議論を行い、法律案に賛成、反対といった意思表示を行って国の法律を決めていました。

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衆議院には~党といった「政党」に所属する議員さんたちがたくさん活動していたのですが、貴族院の議員さんたちは政党に所属しているわけではなかったそうです。政党という政治勢力に距離を置いて貴族院議員さんたちは政治活動をしていました。政党と対立関係にあったようです。ただ情報の交換を目的とする会派というものはありました。

この貴族院という議会を構想したのは伊藤博文さんだそうです。天皇、皇室を支えるための貴族階級の存在が必要と考えていた伊藤さんは、貴族階級に国の法律を決定する過程に関与させて君主制を守ることの出来るような仕組みにしようと考えたわけです。

 

どういう人たちが議員になっていたのでしょう

 

議員となっていた人たちはこの議会の性格上、半数以上が平民ではありませんでした。皇族の方々や華族の方々で構成される議員さんの数が全貴族院議員数の半分以上となっていました。貴族院議員には皇族の方々、華族の人たち、政府がこの人は有識者だし適切じゃないかと判断して天皇が任命した人たち、たくさんのお金を納税していた人たちが就任していたそうです。

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皇族の方々は男性で一定年齢に達しておられた場合には、全員議員になられていたのだそうです。何人までといった制限はありませんでした。しかし政治活動をすれば意見の衝突も当然生じてしまいます。皇族という立場上そのような対立関係に関わるのは好ましくないと判断されていたそうで、議員という立場ではあったものの議会活動への参加は実際にはされていませんでした。任期は無く、一度なったら一生議員のままだったようです。

貴族階級である「華族」の身分だった人たちも議員となりました。ただ爵位によっては全員が議員となったわけではないようです。華族には上から順に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵という5つの爵位が存在しました。公爵や侯爵の人たちは皇族と同様一定年齢となった場合、即議員となる仕組みになっていました。定員もなかったそうです。ただ軍人であった場合は議員となっても議会には出席しないしきたりになっていたそうです。(軍人は政治に関わるべきではないという理由からです)

伯爵、子爵、男爵の人たちについては人数が多いこともあって同じ爵位の人たちによって誰が議員になったらよいか選挙をしました。何人議員にするかについては時代によって様々だったそうです。貴族院は日本国憲法が造られたことで廃止されることになりますが、その頃の伯爵、子爵、男爵の議員定数は150人とされていました。

皇族、華族の他は内閣が適任と判断し天皇陛下に「この人が良いと思います」と進言して天皇陛下が任命する勅選(ちょくせん)議員さんです。どのような人が選ばれていたかというと、官僚経験者、財界出身者、大臣経験者、国会議員経験者、大学教授といった人たちだったようです。任期は無かったそうです。

身分の高い人でもなく勅選議員でもない納税額の多い人達からも議員になる人たちがいました。この方たちの場合は任期が決められていました(7年)。府県単位で高額納税した人たちの中から議員さんが選ばれる仕組みになっていました。貴族院廃止前の高額納税議員の定員は67人以内とされていたそうです。

身分の高い人、政界、財界、官界で功績のあった人、有識者、富裕層から議員が輩出されたということです。

 

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大日本帝国憲法が造られた後に誕生した国会の特徴を知る上でも、現在と大きく異なる仕組みであるという点でも貴族院がどのような存在だったのかは知っておいて損は無いかなと思い今回取りあげてみました。歴史の授業で貴族院の名前は出てくることはあったものの、特に存在感を強く感じることも無く通り過ぎていた気もします。伊藤博文さんらの考えである「日本の皇室制度を守るため」という目的で貴族制度も貴族院という議会も整えられていったということのようですね。また民主主義に対抗するという意味も貴族院にはあったということなので、制度を作った明治の有力者たちは民主主義の台頭によって皇室制度が危険にさらされる、と心配していたのかもしれません。

大日本帝国憲法を作った人たちが日本国憲法下の国会を見たら「このままでは日本皇室が危ない!」と思ってしまうのかもしれませんね。今の国会にも戦前と同じように二つ議院がありますが、どちらの議院(衆議院、参議院)も民主的な過程で選ばれる議員さんで構成されていますし貴族制度もありませんから。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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