第一次、第二次日露協約とは?その内容や締結された理由についても

第一次、第二次日露協約とは

 

日露協約(にちろきょうやく)とは日本とロシア帝国との間で結ばれた協約です。「協約」とありますが、この言葉は団体間や個人と団体の間で契約を取り交わす時に使われる言葉でもあります。国家間で約束する場合にこの言葉を使うこともあるようでこの場合には条約と同じ意味を持つようです。

この日露協約は一回だけ結ばれた協約ではなく合計四回、第一次日露協約から第四次日露協約まで存在します。第一次日露協約は西暦1907年(明治40年)に調印され、第二次日露協約は1910年に調印されました。日露戦争が終了し、少し時間が経過してから結ばれたことになります。日露戦争の講和条約はポーツマス条約であり、今回取りあげている日露協約に講和的な意味、戦争を終了させるための条約という性格は全くありません。

日本とロシア帝国の間で協約を結ぶにあたり、フランスがこの話を成立させるために仲立ちしたそうです。反対にアメリカは日露協約という動きに反発したという指摘があります。

 

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第一次、第二次日露協約の内容は

 

第一次、第二次日露協約の内容ですが、第一次日露協約では日本、ロシア間、日本、清国間、清国、ロシア間で結ばれた条約の内容を尊重することや清国独立の支持、清国内の門戸開放、機会均等を実現することなどが含まれています。これらの内容は公表されることとなりました。門戸開放、機会均等というのは、この場合清国の地域においてどの国も商工業を行う機会、チャンスが等しく与えられるようにしよう、ということを意味しています。

しかしそれとは別に日露間で秘密裏に約束された内容もありました。自分たちの利益を得る地域として、いわゆる満州地域の南側を日本が、北側をロシア帝国が確保することを互いに認め合います。また朝鮮半島での権益を日本が、外蒙古(がいもうこ)と呼ばれる現在のモンゴル国が位置するあたりの権益をロシア帝国が確保することについても互いに認め合いました。

1910年の第二次日露協約では米国が国際社会に呼びかけている、「満州鉄道すべてを中立化しよう」という考えを日露両国は拒否し、改めて日露両国が満州地域に保有する権益をお互いに認め合いました。この協約内容は秘密にされていたようです。

米国が提案した「満州鉄道中立化」というのは満州地域の全ての鉄道を当時鉄道の権利を持っていた国から多国籍で連携した組織が買収し、それを清国に譲り渡し、所有権は基本的に清国にある状態にして、一定期間その鉄道を租借、借りて多国籍で連携した組織がその鉄道を運営する。もしそれが実現できないというのであれば、満州に存在している鉄道の代わりとなる新たな鉄道を複数の国が共同で建設し、満州地域の権益を特定の国が独占するような状況を変えようという考えです。多国籍とされた中に含まれる国は日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、清国といった国が挙げられていたそうです。

 

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日露協約が結ばれた理由

 

日本、ロシア帝国両国にとって利益となる話だったからということになります。日本にとって実際にすぐ近くに存在する強国ロシアは軍事的に脅威ですが、その国と権益を認め合う約束を交わすことが出来ることは有意義だと言えます。場合によっては日露戦争で獲得した満州地域の権利を再びロシアが奪いに来るかもしれないと心配する必要がある程度無くなります。裏切られる可能性が無いとは言えませんが。

またアメリカに対抗する上でもロシアとの関係を強めることは意味がありました。日露戦争終了後から南満州の鉄道運営にアメリカの経営者が参加させて欲しいと求めてきていましたが当時の外務大臣小村寿太郎の反対でその求めを結果的に断っています。それにより米国は南満州の権益を日本が独占しようとしていると受け止め、日本を批判する流れが強まっていきました。日本が保有する満州地域の権益を、独占に反対するアメリカから守るため、同じように満州地域に権益を持つロシアと協力することは有意義だと考えました。

ロシアにとっては当時他の地域で他国との対立が強まっていました。欧州のバルカン半島地域で自国の権益を得ることに力を入れたいロシアはトルコと対立するため、他の地域で出来るだけ争いごとをしたくない状況だったそうです。そのため東アジアで日本との関係を悪化させずにお互いの権益を認め合うことはロシアにとって有意義でした。また日本同様満州地域の権益に介入してこようとするアメリカを日本と協力してけん制することについても意味がありました。

またイギリスとロシアの関係を深め、その結果フランス、ロシア、イギリスが協調するという枠組みをフランスが強く希望していました。フランスがドイツと対立していたからだそうです。当時フランスとロシアは同盟を結んでいました。イギリスをフランス、ロシアに引き込むため日本とロシアの関係を良好にする必要があると考えたフランスは日本に経済的な利益(日本国債の買い取り)も示して日露協約を結ぶよう働きかけたそうです。

 

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今回は第一次、第二次日露協約について取りあげてみました。歴史の教科書でも若干触れる項目のようですが、当時つい最近まで戦争をしていた状態の日本とロシアがなぜ協力関係を作ることになったのか、アメリカとの関係が悪化したことが理由だという指摘が多かったのですが、確認してみたく今回取りあげてみました。今回の日露協約を調べていて、当たり前ではあるのかもしれませんが、各国とも安全保障的な意味や経済的な意味を含め自分の利益の為に動くものなのだということを感じました。一時期は日本と満州の鉄道を共同経営したいと言っていたアメリカは日本に断られるとあきらめずにたくさんの国が参加した枠組みを提案してその中で経済的利益を獲得しようとしましたし、フランスはドイツに対抗するため英国やロシアとの協調体制を作りたいので日露協約を日本に結ばせようと強く働きかけましたし、日本やロシアは本来清国のものである満州地域の権益を獲得した以上、その権利をより確実に自国のものとするために出来るだけ多くの国に承認させたいと考えました。一般社会では自分勝手な振る舞いをしていると白い目で見られることは珍しくないと思いますが、現実の国際社会では強国は皆そのようなことをして厳しい国際情勢の中を生き抜こうとしたということのようです。

また国家間の条約のような取り決めというのは、裏でどんなことを話し合い、確認し合っているかわからないものなのだな、ということも強く感じました。表向きはアメリカも喜びそうな清国での門戸開放、機会均等の実現を言っておきながら裏では満州の南北地域における権益を日露両国でお互い認め合っていた(日本が南満州でロシアが北満州で利益を独占するということ)のですから、表向きの内容とは全く逆の内容を裏では約束していたことになります。

「批判しづらい理想や大義名分を語っていたとしても結果的には自国の都合で動く」、「国家と国家は裏で何を約束したか全くうかがいしれない」、このような特徴というのは果たして1900年代初頭(20世紀初頭)に限定した話なのかというと別にそんなことも無いんじゃないだろうかという気がします。実は今の時代もそうかもしれない、そうであることを想定しておいた方が無難なのではないかと感じました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載した写真に関係はございません。ご了承ください。

日露取引関連記事「選択肢、日露協商論と日英同盟論とは?満韓交換についても」はこちらです。

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