第二次長州征討の結末とそれに関わる幕府側の異変
第二次長州征討の結末
第二次長州征討の軍事行動は1866年の6月に幕府側の攻撃で始まっています。様々な場所で戦闘が行われましたが、幕府側に味方して戦っていた長州勢力周辺の藩の城がいくつか長州側に敗れて陥落する結果となっています。しかし一方的に幕府側は敗走したということではなく戦況はどちらか一方に大きく傾くことはなかったようです。
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結局この武力衝突は1866年の9月に行われた幕府と長州双方の話し合いで停戦することとなりました。3か月ほどの期間戦っていたということですね。この停戦に関しては朝廷から戦闘を中止するよう指示が出されたことも影響しているようです。
長州にとっては亡びるかもしれなかった危機的状況の中、幕府側の攻撃から自らの勢力を守り切ったということですから「勝ったも同然!」という雰囲気だったのではないでしょうか。
反対に幕府は負けたわけではないとは言っても、今回の戦闘で長州という一勢力を制圧することが出来なかったということで国を治める力が低下していることを改めて日本中にさらしてしまう結果となりました。
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幕府側の異変
この武力衝突が続いている中、幕府にとっては非常に不幸な、士気が著しく低下する出来事が発生しました。幕府のトップ、将軍である徳川家茂(いえもち)公が急に亡くなられたという出来事です。長州征伐を行う幕府側の一番偉い方が亡くなってしまったことは討伐軍に大きな動揺を与えたことでしょう。
結果的には次の将軍に一橋慶喜(よしのぶ)公が就くわけですがすぐに次の将軍が誰になるか決定されたわけでもなかったようです(12月に将軍になったそうです)。幕府内の調整が必要となったでしょうし長州征伐に集中できるはずもありません。さしあたって家茂公の代わりとして一橋慶喜公が討伐軍の顔となったようですが、その後朝廷に戦闘行為の中止を命令してくださいとお願いしていたそうです。
家茂公が亡くなったのは7月20日でした。それから一か月と少しで停戦です。停戦のタイミングを考えると家茂公の死去がかなり影響しているように感じますがどうなのでしょう。家茂公が急に亡くなられた原因として脚気だったという話があるようです(脚気はビタミンB1が不足することで起きる病気だそうです)。二十歳というまだ非常に若い年齢でした。
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とうとう長州征討が始まり長州が善戦する中、家茂公が亡くなるという長州にとっては都合のいい偶然の出来事が起き停戦という形で長州征討は終了となりました。
幕府を相手にして長州がここまで戦果を挙げたのは何が原因だったのでしょうか。他の記事を含め、調べた範囲では薩摩藩が長州藩に武器支援したという事実がありましたし、薩摩藩は今回の第二次長州征討に幕府側として参加することを拒否していました。
他には当時の長州が軍制度を改革していたという指摘が多いようです。大村益次郎(ますじろう)さんという方が有名らしいのですが、武士以外の人たちを兵員として組織し訓練することにも貢献した人のようです。他の記事でも出てきた奇兵隊は西洋式の制度を採用していた組織なのだそうです。
幕府から藩主らの出頭要請があっても長州側は「病気のため出来ません。」と言って、しかも時間をかけて返答していました。これも出来るだけ幕府の攻撃が始まるまでの期間を引き延ばし、長州側の軍備を整えるのに役立てていたのかもしれません。
このような結果を受けて新たに将軍となる一橋慶喜公はどのような心境だったでしょう。将軍となった当初は心の中で長州藩に対する報復を誓っていたのかもしれませんね。
この慶喜公も第二次長州征討については特に反対していなかったようですし、この記事を作っている過程で調べた範囲では幕府中枢の老中の人たちの中で第二次長州征討に強硬に反対していた人を見つけることは出来ませんでした。幕府の中枢にそういう人はいなかったのでしょうか。単に注目されていないだけかもしれませんが。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
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