松平定信の寛政の改革とはどのような内容だったのでしょう
松平定信の寛政の改革の内容
松平定信(まつだいらさだのぶ)さんという一地域の藩主の立場の方が江戸幕府内で老中という重い役割を担当することになったのは西暦1787年(天明7年)だったと言われています。この年から6年間ほど、定信さんが失脚するまでの間、世の中で寛政の改革(かんせいのかいかく)と呼ばれる幕府による政治の内容を変える試みが将軍、徳川家斉(とくがわいえなり)さんのもとで定信さんを中心におこなわれたそうです。どのように政治を変えたのかについて大まかに言うと、出費を減らす、倹約を推進し、幕府の収入確保のために農業従事者を支援し、都市の治安維持を目的とした貧困層対策をおこない、武士階層の経済状況を改善しようとし、学問や言論の統制を強めた、といったことが挙げられるかと思います。幕府の台所は赤字状態だったそうで、幕府の財政状況を改善させるために定信さんは幕府の歳出を切り詰めるようにしました。大奥の維持にかかる費用を相当減らしたことは有名なようです。
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地方の農業を復興しようとしました
凶作などを理由に地方で農業を続けていても生きていけないということで故郷を捨てて都市に移り住み生活を送る農業従事者が増えていたそうです。そうなりますと農村で作物を栽培してくれる担い手が減りますから作物の収穫量も減ることになり結局幕府が農業従事者から取り立てる年貢の量も減ってしまいます。これは幕府の収入が減るということですから幕府の財政状況を悪化させることになります。赤字状態の幕府の台所を改善させるには作物の収穫量を増やさなければならないので定信さんは貧困で都市に逃げていった農業従事者が地方に戻りやすくする政策を打ち出したようです。作物の栽培に必要となる農業器具や作物の種を購入するための費用を支援したり、農業従事者の都市への移動を制限したり、凶作となった時の飢饉に対する備えとして囲い米(かこいまい)というお米などの穀物を備蓄する制度を作ったりしたようです。
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都市の治安状況を悪化させないような政策をとりました
都市では経済的に貧しい人達が裕福な商人の家屋を襲撃するような暴動、打ちこわしが増えていたそうです。貧困層に対する対策として住む場所も職も無い人を受け入れる施設を作りそこで職人仕事を身につけさせて自立させようとしたそうです。人足寄場(にんそくよせば)という呼ばれかたをしました。町の運営の費用を切り詰めさせて浮いたお金の7分(しちぶ)、7%を貯めて貧しい人達の支援のために使うような七分金積立(しちぶきんつみたて)という仕組みも作られました。
武士の経済状況に配慮
幕府に仕えるお侍さんたちは幕府から支給される石高や将軍との謁見が許可されているかどうかなどで旗本(はたもと)や御家人(ごけにん)といった階層に分かれていたそうですが、旗本も御家人も商人から借金をして苦しんでいる人がたくさんいたようです。そういった人たちの経済状況を改善させるために借金を帳消しにしたり借金の利子を減らすような規則を作ったそうです。棄捐令(きえんれい)などと呼ばれる制度です。
学問や言論の統制
幕府は儒教を保護しましたがその中でも主従関係をしっかり守ることを特に重視する朱子学という学派を大切にしました。幕府による秩序の維持にはそのような考え方が非常に大切だと見なされていたようです。しかし儒教の他の学派が人々の中で支持される動きもあり定信さんが政治をする頃は朱子学の勢いは弱まっていました。朱子学の立場を強めることが幕府の体制を強化することにつながると考えたということでしょうか、幕府が保護していた儒教の学問をする施設、昌平黌(しょうへいこう)での講義は朱子学のものだけにするよう制限し、幕府の役人になるための試験科目として朱子学を採用し他の儒教の学派については採用しませんでした。寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)などと呼ばれることが多い政策です。また幕府の政治について批評する動きや風俗を乱すと見なされた書物を取り締まるような対応もおこなっています。ロシアの脅威を主張し国防の充実を訴えた林子平(はやししへい)という人や洒落本の作者、山東京伝(さんとうきょうでん)といった人たちを処罰したのは有名です。
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今回は江戸時代の西暦1700年代末の出来事、寛政の改革を取りあげました。江戸時代の出来事は幕末まで関心を集めるような話はそれ程無いようなのですが、その中で寛政の改革はとても注目されている出来事のようです。寛政の改革という名前や中心になって政治をしていた松平定信という人の名前は何となく記憶にありますが、具体的にどんなことをしたかというと大して覚えてはおらず、世の中の人々からあまり支持されていなかったくらいのことが何となく思い出されるような、個人的にはそういう状態だったので改革と呼ばれる内容を確認したくこのような記事を作ってみました。幕府の赤字状況を立て直すために金を出し渋るわけですから、人気が出ないのは無理もないことなのかなとも思います。定信さんが失脚したのは朝廷や将軍、家斉さんとの関係が悪化したことが理由だそうですけれど、倹約や統制といった定信さんの政治に対する不満が強かったことも失脚の原因だと指摘する意見もあるようです。定信さんのやった倹約などがやり過ぎだったのかどうかはわかりませんが、必要なのだとしても緊縮財政というのは結果的には世の人々から嫌われるものということでしょうか。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
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江戸末期、老中を担当された方の政策に触れている話「老中安藤信正公のすすめた公武合体とは何なのか調べてみました。」はこちらです。
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