明智光秀さんと足利義昭さんはどんな関係だったのでしょう

明智光秀さんと足利義昭さんの関係

 

豊臣秀吉さんが大きな権限を握り天下統一を果たす足がかりとなったのは元々秀吉さんが仕えていた戦国大名の織田信長さんが予期せずに命を落とし、謀反人とされた明智光秀さんを秀吉さんがいち早く討伐することが出来たからだという見方が多いようです。信長さんを京都で襲撃した明智光秀さん。なぜ信長さんを襲撃したのか。その動機は様々に推測されているようですが定まったものが実は今のところ無いとも言われているようです。ただ明智さんが信長さんを恨む理由についてはいろいろと挙げられることも多いです。タイトルでも名前の挙げたもう一人の人物、足利義昭さんも一時期を境に信長さんとは鋭く対立する関係となった、信長さんを憎む立場のかたです。義昭さんは信長さんによって室町幕府の将軍の座から引き摺り下ろされました。それによって室町幕府は終わってしまうことになります。もともと将軍の座につくことが出来たのも信長さんのおかげと見られているようですけれど。当然信長さんを憎んでいるであろう足利義昭さんと襲撃理由が不明となっているものの結果的に信長さんの命を奪っている明智光秀さん。このお二人の間はどのような関係だったのでしょう。明智さんは信長さんを襲撃したころ、信長さんの直接の家臣という立場でした。しかしもともと明智さんは他の武将の家臣だったこともある、仕える主君が転々と変化したかたでもありました。転々と変化した主君の中に室町幕府最後の将軍である足利義昭さんもいたのです。ただその時期は、義昭さんだけに仕えていたということではなく一時期良好関係にあった足利義昭さんと織田信長さん両方に仕えるという状態だったようです。そのような関係は永禄11年、西暦1568年から元亀4年、西暦1573年の初めころまで続いたようです。しかし明確に義昭さんと信長さんの関係が悪化し、お互いの間で戦となるころには明智さんは信長さんの家臣という旗色を明確にして義昭さんと対立することになります。義昭さんは信長さんとの戦いに敗れ、他の有力戦国大名の領地に移動し信長さんの打倒を目指すことになります。明智さんは引き続き織田さんの家臣として働いていくことになります。

 

スポンサーリンク

朝倉義景さんの領地で

 

明智さんは美濃の国、現在の岐阜県を治めていた斎藤道三という戦国大名の家臣だったそうなのですが斎藤さんの家の中の争いに巻き込まれ、斎藤家の家臣として活動できないこととなり家臣として採用してくれる他の武将を探すため美濃を離れます。その結果越前、現在の福井県の一部にあたる地域ですが、そこを支配していた朝倉家に家臣として採用してもらったと言われています。越前に身を置いてしばらくした後、足利義昭さんが朝倉さんを頼って近畿から逃亡してきました。京の周辺は義昭さんのお兄さん足利義輝さんを倒した戦国大名たちが幅を利かせていて義昭さん自身の身も危うくなっていたようです。朝倉さんに保護してもらったのはいいものの義昭さんは京に進軍し近畿にいる室町幕府に従わない戦国大名に言うことを聞かせることの出来る強い戦国大名の力を借りて自分が将軍の座におさまることを目指していました。しかし朝倉さんは全国に号令をかけるといった義昭さんが抱いているような野心は持っていなかったようで、その点に不満な義昭さんは朝倉さんに見切りをつけて織田さんを頼ろうと考えます。それで明智さんが義昭さんの意を受けて信長さんに接触し信長さんが義昭さんを受け入れ、それ以降明智さんは義昭さんと信長さんに仕える立場となりました。義昭さんが朝倉さんのもとを離れる時に明智さんは朝倉さんの家臣の立場ではなくなったということのようです。

 

スポンサーリンク

義昭さんと信長さんの対立で信長さんを選ぶ

 

信長さんが上洛することで義昭さんは近畿に入り室町幕府の将軍となることが出来ました。しかし将軍としての義昭さんの権限を制限しようとする信長さんと義昭さんの関係はその後悪化し武力衝突するまでに至ってしまいます。西暦1573年頃のことだそうです。そのあたりで明智さんは義昭さんよりも信長さんを選び、信長さんの配下としてむしろ義昭さんと敵対する関係となりました。義昭さんは信長さんとの戦に敗れ降伏し政権から追放されてしまいます。信長さんによって室町幕府を滅ぼされた義昭さんは室町幕府の再興を目標に他の有力武将の領地に移動していくことになります。

 

今回は明智光秀さんと足利義昭さんの関係について取りあげました。なぜ明智さんが本能寺の変を引き起こしたのかについて様々な憶測があるようなのですが足利義昭さんが関係する説もあるようで明智さんと義昭さんの関係はどのようなものだったのか確認してみたく今回のようなテーマの記事にしてみました。明智さんは義昭さんの家臣の立場をやめ、信長さんに従うことにしたわけですからあまり明智さんと義昭さんの関係というのは深くは無いのだろうなぁというのが調べていて持った印象でした。

スポンサーリンク

信長さんという共通の敵を前にして関係が急速に回復したということもあるのかもしれませんが、そういったことを強く示唆する根拠に出会っているわけでもありません。主君となる人を変えていってどんどん出世した明智さんですが、その末に自分が主君を襲撃する結果になるというのは何ともむなしいものですね。朝倉さんに仕えていたとしてもその後朝倉さんは信長さんに滅ぼされることになりますし、義昭さんは信長さんに追放されることになりましたし、信長さんに仕えた結果信長さんを殺す張本人になってしまいましたし、明智さんの身の周りにはあまり良い選択肢が無かったということなのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

主君である豊臣家を裏切る動きについて触れている話「石田三成さんと徳川家康さんの対立理由は何だったのでしょう」はこちらです。

有名な武将、秀吉さんと伊達さんの関係について触れている話「豊臣秀吉さんと伊達政宗さんの関係はどうだったのでしょう」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る