古代の日本が遣唐使を派遣した目的は何だったのでしょう

日本が遣唐使を派遣した目的

日本の朝廷の拠点、都が平城京に移される以前の飛鳥時代に始められた、使節派遣に関するお話となります。遣唐使(けんとうし)という名前からわかるように唐(とう)という国に日本の政権が使節を派遣しました。唐は中国大陸の広い範囲を領土としていた大国です。隋(ずい)という国が滅んで誕生した国なのですが、誕生、建国したのは西暦618年だそうで、最初に日本から唐へ使節が派遣されることになる西暦630年の12年前ということになります。この国に日本の政権は優秀な人材を一度に400人以上も派遣していたのだそうです。朝鮮半島を経由する航路のほうが安全だったそうですが理由があって荒い海を渡る航路を選択せざるを得なかった時期もあり、遭難するのが全く珍しくない危険な旅だったと言われています。頻度的には20年に一度程度なので頻繁とも言えませんが合計15回実施されたそうですからかなりの回数と言えなくもありません。相当危険な思いをしてまで唐という国に使節が派遣され続けた、その目的とは一体何だったのでしょう。大国である唐との関係を良好に保つためといった外交的な目的や情報収集のためといった指摘もあるようですが、最も重要な目的は中国の進んだ文化、制度、科学技術を日本に取り入れることだったという見方が多いようです。

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日本に先進的な制度や文化を取り入れたい

唐という国は当時のアジアでは先進国のような地位にあったようで、当時の日本からすると唐の政権がやっていた政治、世の中の仕組みは模範のように見られていたようです。優れた政治の仕組みを導入することで強い国に変貌していく必要があると日本の政権関係者は考えたようで、唐のように日本もお役人の仕組みや法律をしっかり定める律令体制(りつりょうたいせい)を整えていくことになります。そういった体制を整えていくにあたり遣唐使がもたらしてくれる唐でおこなわれている政治の仕組み、制度に関する知識が役に立つこととなりました。また当時の世の中で非常に重要な思想、宗教であった仏教に関する知識を取り入れることも大切な目的だったようです。聖武天皇がそうであったように、仏教の力に頼って国の運営を安定させようと考えるくらいですから正しい仏教のあり方にこだわるためたくさんのお坊さんも遣唐使に参加していました。他にも現代的な価値観から言っても実利的であろう医学、天文などといった科学技術面の知識も遣唐使によって日本にもたらされることとなりました。

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唐との関係を良好にしたい

618年に誕生した唐の国力が非常に大きかった時期というのは西暦710年代から50年間くらいだったそうです。大国である唐との関係は出来るだけ良好にしておいたほうが望ましいと考えるのは日本の権力者の立場であれば自然なことと言えます。唐と戦争するような敵対関係になっては日本が滅んでしまう危険性もありますので。そのために定期的に交流し唐との関係を維持することは理にかなった行為でした。日本が唐に朝貢している、貢物を差し出す従属的な関係である、と唐の政権は解釈していたという見方が強いようです。しかし日本側としてそれほど従属的な関係で唐と接触するという考えには無かったようですし、日本の天皇が唐の皇帝から公的文書や印鑑などをもらって「どこそこの地域を治めてもいいぞよ」といった許しを得て役職に任じられるような冊封(さくほう)を受けていたわけではありません。古代の日本にあった邪馬台国の卑弥呼さんは中国大陸の魏という国から金印をもらっていましたが、日本と唐の間ではああいった関係はなかったということです。日本側としては唐と険悪にはなりたくないものの、一応のけじめを保っていたというところでしょうか。

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情報収集

中国大陸の情勢がどうなっているのか情報を集めて国際的な動き、周辺諸国の動きを分析することは現在もそうですが当時であっても非常に重要な話だったことでしょう。大陸の動向をさぐることは日本の安全保障にも当然関係してきますし。唐は大国であるがゆえに、様々な国から人々が出入りしていたため、特に唐の首都、長安は情報を入手するうえで大変重要な舞台になったことと思われます。

今回は遣唐使の目的について一部取りあげました。危険な行程だった大陸への旅をわざわざしていたことについては以前遣唐使を廃止したことに触れた記事を作る中で知ることが出来ましたが、リスクを冒してこのような大規模な事業を維持する目的は何だったのか改めて確認したく今回のようなテーマの記事にしてみました。学校でも進んだ文化や技術を取り入れるためといった内容を習ったような気はするのですが、今回記事を作ってみて国力を増進させるため、周辺諸国に負けないようなしっかりした国を作るためといった生き残りを目的とした切実な意図を感じた気がします。生存競争を生き抜くためすぐれた技術、制度を取り入れようという話を聞くと遣唐使が明治維新後の新政府による殖産興業やお雇い外国人による他国からの知識、技術導入といったこととダブって見えるような気が個人的にはしました。西暦630年から始まった遣唐使のおかげもあって日本でも中央集権の政権の仕組みが整えられていきました。政権組織の仕組みや刑法が日本で大宝律令(たいほうりつりょう)という形でしっかりと確立したのは大宝(たいほう)元年、西暦701年になります。唐が物凄く盛んだった時期に間に合ったようです。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

そんな唐への使節派遣が中止された理由について触れている話「日本の遣唐使制度が廃止されたのはなぜだったのでしょう」はこちらです。

別の時代の中国大陸の国との関係について触れている話「江戸時代の日本は中国大陸の国とどんな関係だったのでしょう」はこちらです。

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