鎌倉時代の承久の乱をなぜ後鳥羽上皇は起こしたのでしょう

鎌倉時代に後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたのはなぜ

鎌倉時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに鎌倉時代に発生した出来事、承久の乱(じょうきゅうのらん 承久の変と呼ばれることもあるそうです)を当事者である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)がなぜ起こしたのかについて書いてみたいと思います。承久の乱は朝廷側に立った勢力と鎌倉幕府が対立し武力衝突したという出来事です。承久(じょうきゅう)三年、西暦1221年に起きています。「人に不意討ち ひとにふいうち」という年号を憶えるための語呂合わせはよく使われるようです。朝廷側の武装蜂起が鎌倉幕府にとって唐突だったということを知っているとこの語呂合わせも頭に残りやすいのかもしれません。戦闘は短い期間で収束しています。鎌倉幕府側が勝利して終結しました。いくさに負けて後鳥羽上皇は幕府側から問い質された当初、この争いについての関与を否定したなどという話もあるそうですが結果的には隠岐の島に流されるという罰を科されることとなりました。争いを始めた側が敗れてしまったこの出来事、鎌倉幕府側に力を貸す武士の数について朝廷側は読み違えたといった見方もあるようですが、後鳥羽上皇はどうして鎌倉幕府に対して戦いを挑むことにしたのでしょう。鎌倉に政権を創った源頼朝さんの血統が途絶えたから、鎌倉幕府との間で経済的利益に関する対立があったからなどといった指摘が多いようです。

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頼朝さんの血筋が途絶えてしまったので

源頼朝(みなもとのよりとも)さんが鎌倉幕府初代将軍となったのは大変有名な話ですが、頼朝さんが思いがけない事故でこの世を去ってしまったあともしばらくは頼朝さんの家系のかたが将軍を担当することになります。二代目の将軍は頼朝さんのお子さんである源頼家(みなもとのよりいえ)さんです。しかしこのかたは長期間将軍職を担当したわけではありませんでした。就任したのは正治(しょうじ)元年、西暦1199年であり頼家さんから次の人物に将軍職が代わったのは建仁(けんにん)3年、西暦1203年です。4年間経過し頼家さんは将軍職の座から引き摺り下ろされてしまいます。頼家さんの次に将軍職を担当したのは頼朝さんの息子さんで頼家さんの弟さんである源実朝(みなもとのさねとも)さんでした。この方は頼家さんに比べればずっと長く(16年間)将軍職を担当しましたが、頼家さんの子息のかた、つまり甥にあたるかたによって殺害されてしまうという辛い亡くなられかたをしています。実朝さんが亡くなり、それ以降の鎌倉幕府の将軍職は源頼朝さんの血統を受け継がない方たちが担当することとなります。公家のかたや皇族のかたです。幕府を開き、武士の方々から大変な支持を集めた頼朝さんはもちろんですがその子孫の方々が将軍職にあったことは幕府が存在することに関する正当性を持たせていたと思われますが、政権を開いたことに関与していない公家のかたが将軍職を担当するとなりますと、源氏の方々が将軍だったころに比べ幕府の屋台骨が揺らいだ格好となります。幕府を倒すのであればそのような状況の時のほうが都合はいいというように見えるのでしょう。また後鳥羽上皇は3代目の将軍、源実朝さんと幕府関係者の中では比較的良好な関係を持つことが出来ていたのだそうです。そういったかたが亡くなってしまい後鳥羽上皇と幕府の関係は実朝さんがいた頃に比べ冷え込んでしまいました。

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経済的な利益の侵害

鎌倉幕府が誕生して国内のたくさんの地域が幕府の影響下に置かれることとなりはしたものの、朝廷を始めとした他の勢力が保有する領地もまだまだあったそうです。承久の乱がおこる以前、西日本のかなりの地域は鎌倉幕府の手があまり及んでいませんでした。しかしそういった地域のいくらかの場所でも幕府によって土地から税負担を徴収する役割を担当する武士、地頭(じとう)が任命されました。皇族や貴族の人々の領地で収穫された農作物の一部が領地の持ち主である皇族や貴族の人々に納められるべきところを地頭に任命された武士が横取りしたり、皇族や貴族の領地の一部を奪うようなことをしたりもする問題が発生してしまい皇族や貴族の方々など朝廷関係者が得られる経済的利益が幕府の誕生以降減少してしまうようになりました。幕府とのつながりの強い地域からは幕府が誕生する前に比べ皇族や貴族に領地所有の名義引き受けに関する要請もすごく減ってしまったようです。様々な面で才覚のあったと言われる人物、後鳥羽上皇は国内全体に朝廷の影響を及ぼしたいという思いが歴代の天皇、天皇経験者に比べ強かったようで幕府による経済的利益の侵害に関しては強い不満を持っていたと見られています。源実朝さんとそういった経済的な面での交渉をしていたようなのですが、前の項目で触れた通り実朝さんも亡くなり幕府から妥協を引き出すことも難しくなったのかもしれません。

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今回は承久の乱を後鳥羽上皇が起こすことになった理由について一部取りあげました。鎌倉時代の終わりごろにも朝廷の後醍醐天皇が鎌倉幕府側と敵対しましたが、朝廷と鎌倉幕府の対立は鎌倉幕府が滅亡する時期より100年以上前の時代にも武力衝突という形になってしまっていたわけです。承久の乱の場合、衝突した期間はすごく短かったようですが、対立の構図を見るとやはり重要な出来事かと思いますのでこの出来事に関連した話題の記事を作りたく今回のようなテーマにしてみた次第です。後鳥羽上皇は、彼が幕府を倒すよう命令したならば幕府側につく武士はそれ程出て来ないだろうと見込んでいたそうですが20万近い軍勢に膨れ上がって幕府の勢力は京に向けて進軍したのだそうです。朝廷の権威と源頼朝さんから受けた領地などの経済的な恩恵を天秤にかけて幕府の恩を選んだ武士たちが多かったということになります。鎌倉幕府が滅んだ頃は経済的に行き詰った御家人の方々がたくさん増えてしまったという話は以前公開した記事の中でも触れましたが、そのために幕府の側に立って懸命に戦う人も少なくなってしまったということなのかもしれません。強い勢力を保つためには自分の側に立って戦ってくれる人々の経済状況を安定させる必要があるということなのでしょうね。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではigamaniaさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

鎌倉幕府の関係機関について触れている話「六波羅探題(ろくはらたんだい)とは?簡単に説明しますと」はこちらです。

鎌倉幕府の有力な一族について触れている話「北条家が執権を独占出来たのはなぜだったのでしょう」はこちらです。

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