張鼓峰事件とは?発生した場所や昭和天皇の反応についても

事件が発生した場所

 

張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)が発生した場所ですが、満州国、ソビエト連邦、朝鮮半島(当時日本国の領土)の領土が接する地域です。朝鮮半島から見て北東の地域に国境となっている大きな川、豆満江(とまんこう)があります。この川が朝鮮半島と当時の満州国やソ連の領土との境になっていました。豆満江が日本海に流れ込むあたりでは朝鮮半島と接しているのはソ連の領土でしたが豆満江を河口から上流に遡ると朝鮮半島とソ連領土の間に満州国領土が挟まれるような地域が出てきます。豆満江の河口から20kmほど上流に遡ったあたり。ソ連領内にはハサン湖という湖があります。そのハサン湖の西側に張鼓峰と呼ばれる小さな山があります。現在この地域は張鼓峰の東側はロシア連邦領、西側は中華人民共和国領、豆満江から西は北朝鮮領となっています。このあたりで張鼓峰事件が起きました。

 

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張鼓峰事件とは

 

張鼓峰事件とは満州国とソビエト連邦との間の領土問題から生じた、実質的な日本軍とソビエト連邦軍との間の武力衝突です。満州国の防衛を日本軍も担当していたため日本軍がソ連と戦ったわけです。この事件は西暦1938年(昭和13年)7月に発生しました。この時の日本の政権は第一次近衛内閣になります。張鼓峰という小さい山付近の国境に関して満州側とソ連側で意見が異なっていて満州や日本側の意見では張鼓峰周辺は全て満州国領で近くにあるハサン湖から東がソ連領と考えていました。一方ソ連は国境が張鼓峰の頂上の真上と見なしており張鼓峰の頂上地点から東はソ連領、頂上地点から西は満州国領と考えていたそうです。1938年の7月に入りソ連が張鼓峰の東側に陣地を建設し始め、日本兵士を殺害するような出来事が発生しました。満州や日本はソ連の軍を張鼓峰から撤退させるよう外交官を通して求めましたがソ連側が譲りません。結局日本軍が国境を侵犯していると見なしてソ連側を7月29日に攻撃しその後ソ連が大規模な反撃をおこない、戦闘は停戦協定が結ばれる8月10日頃まで続きます。この武力衝突、ソ連側が戦車や飛行機を使った攻撃をおこなったことで日本軍側は大変苦戦したのだそうです。日本軍は約500人の兵員の方が亡くなり、ソ連側は約700人の兵員が亡くなっています。停戦協定は張鼓峰の頂上を日本軍側が確保していた状況で成立し結果的には満州や日本が主張していた国境よりも日本軍は西側に後退せざるを得なくなったようです。

 

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昭和天皇の反応

 

7月に入りソ連側が張鼓峰の頂上から東側に陣地を構築する動きを見せた後日本政府はこれを重く見て当時の陸軍大臣や陸軍参謀本部のトップ、参謀総長が昭和天皇に武力行使の許可を出していただくよう申し上げたそうですが、昭和天皇から許可は出なかったそうです。当時の陸軍大臣に対する不信感から非常に怒った様子だったといった指摘もあるようですがその点はよくわかりません。ただ日本側からのソ連への先制攻撃を許可しなかったことは事実のようです。しかしそのような昭和天皇の意向に反し張鼓峰周辺を守っていた日本軍はソ連側に対し先に武力行使してしまいました。この事態について後に報告を受けた昭和天皇は日本軍側が国境線を越えないように、つまりソ連領内に侵入しないようにということと、国境線を確保するように、つまりソ連軍が満州領内に侵入するのを許さないようにと命じられたそうです。

 

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今回は張鼓峰事件について取りあげてみました。中華民国側と戦闘が続いている中でのソビエト連邦との武力衝突ですし、日本がソ連を相手に苦労した戦いです。これが拡大したら大変なことになっていたであろう出来事でしょうから調べてみることとしました。昭和天皇の命令通り先に日本軍側が武力行使していなかったら、その後はどうなっていたんでしょうね。結局ソ連側のペースで国境が決められたんでしょうか。武力行使の前におこなわれた外交的な交渉でソ連側は妥協しなかったようですから話し合いで張鼓峰の東側に作った陣地を撤去してハサン湖まで後退するということにはならなそうですよね。ソ連側が1938年の7月という時点でこのような動きをしてきたのは日本軍が中華民国国民政府軍との戦闘をズルズルと続けていたからなのでしょうか。隙をつくような行為にも感じます。戦争している状態の時に全く別の国が付け込んでくるということがあるものなのですね。こういうこともありますから、当たり前なのでしょうけれど戦争を長く続けるというのは得策ではないと改めて感じます。陸軍の参謀本部が中華民国国民政府側との和平交渉を打ち切らないよう当時の内閣に強く主張したのもわかる気がしました。ただどういう条件を提示したら日本と国民政府との戦闘を終わらせることが出来たのでしょう。国民政府側に相当妥協しなければ終えることは難しかったんじゃないでしょうか。日本政府が国民政府に対し大幅な妥協をしたら日本国民がポーツマス条約の時のように暴動を起こす危険性が強まるのではないかと思いますし、戦争が長引くと解決が本当に難しそうです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

当時ソ連と結んでいた条約について触れている話「日ソ基本条約の内容は?締結された背景や双方の全権についても」はこちらです。

ソ連を中心とする共産主義勢力の方針に触れている話「日独防共協定とは?協定を結んだ目的や協定内容についても」はこちらです。

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