著名な建築物、聚楽第が破壊された理由は何だったのでしょう

聚楽第が破壊された理由

桃山時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに豊臣秀吉さんが指示して建設された有名な建築物、聚楽第(じゅらくてい じゅらくだいなどと読みます)が破壊された理由について書いてみたいと思います。豊臣秀吉さんがこの聚楽第という建物を造らせたのは天正十四年、西暦1586年だったと言われています。この年は秀吉さんにかつて小牧・長久手(こまき・ながくて)のいくさで勝利した武将、徳川家康さんが上洛、京へ行き秀吉さんに臣下となる姿勢を示した年でもあります。すでにこの頃関白にもなっていた秀吉さんは政治をおこなう拠点として、また関白である自分の邸宅として聚楽第を建てることにしました。堀で囲まれ、城の機能も兼ね備えた建築物でした。翌年天正十五年、西暦1587年には完成していたようです。金箔で装飾された瓦を使用するなど大変ぜいたくな造りの邸宅でした。わざわざ当時の天皇にこの聚楽第へ行幸(ぎょうこう)、お出まししていただいたりもしています。しかしそれくらい重要な行事がおこなわれた施設が破壊されてしまいます。破壊されたのは文禄(ぶんろく)四年、西暦1595年。聚楽第完成から8年程度です。大変な経費がかかったであろう豪勢な建築物をなぜそのような短期間で破壊してしまったのでしょう。秀吉さんの後継者と見られていた方と秀吉さんの関係が悪化したことは大きく影響しているようです。

スポンサーリンク

豊臣秀吉さんと豊臣秀次さん

秀吉さんには結果的に秀頼さんというお子さんが誕生するのですが、それは秀吉さんが亡くなる5年前の話です。それ以前にも鶴松さんという息子さんが生まれていたのですが、天正十九年、西暦1591年に若くしてお亡くなりになっていました。鶴松さんがお亡くなりになって、もう秀吉さんにお子さんが出来ないだろうという判断からなのか、秀吉さんの後継者として甥にあたる豊臣秀次(ひでつぐ)さんが選ばれます。彼は秀吉さんの担当していた朝廷の役職、関白を引き継ぐことになります。しかし秀次さんを後継者に指名した本人である秀吉さんと秀次さんの関係がその後悪化してしまいます。秀次さんは仏教界の重要な場所、高野山(こうやさん 和歌山県にあります)に移動するよう秀吉さんから命じられ、結局切腹するよう言い渡されてしまいました。命令に従い自害された秀次さんが生前使用していた邸宅は秀吉さんが建設させた今回のテーマでもある聚楽第でした。関白職を秀次さんが引き継いでから秀次さんに聚楽第を使用させていたようです。邸宅の主が自害して亡くなられたということで聚楽第を使用する者がいなくなり取り壊されることとなりました。取り壊しについては秀吉さんの秀次さんに対する怒りのあまり、そのような処置がされたなどといった見方もあるようですが、それが正しいのかどうかは何とも言えません。ただ当時の聚楽第の主人が亡くなったことは聚楽第の破壊、取り壊しと大きく関わっているようです。

スポンサーリンク

秀吉さんが聚楽第を引き続き使えば良かったのでは?

秀次さんという聚楽第の主が亡くなりはしたものの、もともと建設を命じたのは秀吉さんなわけですから、秀吉さんが邸宅として使えばいいじゃないかという考え方も出来るかと思いますが、秀吉さんはそうしませんでした。秀吉さんは聚楽第の他に京に自分が住むための居城をすでに建設していたのです。聚楽第は秀次さんに譲ったのだからということで自分が住むための城を現在の京都市伏見区の地域に建設しました。そのため聚楽第に移動する必要は無かったわけです。聚楽第の周辺には武将のお屋敷がたくさん並んでいたそうですが、聚楽第の取り壊しによって聚楽第周辺に武将の方々が御屋敷を持つ意味も薄れていきました。伏見城周辺に屋敷が移っていくこととなります。

スポンサーリンク

今回は聚楽第が破壊された理由について取り上げました。大変ぜいたくな建物だったという話は何となく聞いた記憶がありましたが、それをわざわざ取り壊したということについてはよく知らず、お金もすごくかけたであろうそのような施設を壊してしまう理由もこれまで知らなかったので、確認したいということで今回のようなテーマにしてみました。秀吉さんが利用する城が既にあったので秀吉さんが聚楽第を再び利用する必要は無かったのかもしれませんが別の人が利用することは、秀吉さんが許可をしたのなら十分可能だったのでしょう。秀吉さんの寵愛を受けた茶々さんの別荘にするとか・・・。でも秀吉さんから切腹を命じられ亡くなられた秀次さんが聚楽第の最後の使用者だったので秀吉さんの関係者が聚楽第を利用するというのも無理があるのでしょうか。個人的な、勝手な憶測ではありますが秀吉さんや秀吉さんの周辺の人々からしてみると秀次さんの死後、聚楽第を利用するというのは、正直あまり気持ちのいいものではなかったんじゃないだろうかといった見方も出来るのかもしれませんね。秀次さんの側から見れば秀吉さんに対する恨みのようなものを抱えてこの世を去っていったことは十分考えられますし。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。今回の記事では丸岡ジョーさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

秀吉さんによる朝鮮出兵について触れている話「豊臣秀吉さんが朝鮮出兵を実行した目的は何だったのでしょう」はこちらです。

秀吉さんのキリスト教政策について触れている話「秀吉さんがバテレン追放令を出した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る