徳川綱吉さんの時代に貨幣の質を変えてどうなったのでしょう

綱吉さんの時代に貨幣の質を変更したあと

日本の江戸時代の歴史や経済の歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では17世紀後半から18世紀初頭までの間(1680年~1709年)、江戸幕府の将軍を担当した第五代将軍、徳川綱吉(とくがわつなよし)さんの時代に起きた出来事である新たな貨幣の製作によってどういった影響があったのか私なりに書いてみたいと思います。綱吉さんは30年近く幕府のトップとして政治をしていましたが、彼の許可によって新たな貨幣、元禄(げんろく)小判の製造が開始されたのは元禄八年(西暦1695年)だったそうです。将軍就任後十年以上経過していた時期です。この元禄小判鋳造(ちゅうぞう)という政策を実施した中心人物として荻原重秀(おぎわらしげひで)さんが有名です。幕府の財政や一般民衆対象の政治をおこなっていた機関、勘定所(かんじょうしょ)の仕事をチェックする役目、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)を担当されていた幕臣(ばくしん)、将軍の家来でした。彼の指揮で、これまでの小判に比べて金(きん)を含む量が少ない小判に変更することになります。以前に比べ三分の二くらいに含有量が減ったそうです。そのような金の量が少ない貨幣を造ることにしたのは幕府の財政状態が良くなかったからだと言われています。この新貨幣、元禄小判が造られるようになった後どのような影響があったのでしょう。幕府はこの貨幣の製造によって多額の収入を得ることが出来たと言われています。その一方、この元禄小判の流通によって一般民衆の生活が苦しくなってしまったという説が主流となっているようです。ただ他の説として、それ程物価が上昇したわけではないといった見方もあるようです。

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幕府の収入に

元禄小判は従来の小判に比べて金の含有量が少ないと先ほど述べました(従来の小判というのは慶長(けいちょう)小判と呼ばれているそうです)。このことで幕府が収入を得たといった内容は教科書にも載っているようですが、どういったカラクリで幕府の利益につながるのでしょう。カラクリの話の前に基本となる情報にお付き合いください。前の小判、慶長小判に含まれている金の含有量は4匁(もんめ)でした。匁は日本で昔から使われている重さの単位です。一匁の重さはグラムに直すと、3.75グラムとなります。なので慶長小判の金4匁は金15グラムということになります。一方の新しい小判、元禄小判に含まれている金の含有量はというと2.6匁でした。グラムにすると9.75グラムですね。9.75グラムですから、大体10グラムと考えますと、元禄小判には慶長小判の三分の二の量の金しか含まれていなかったということになります。これはつまり同じ量の金から従来は二枚の、二両の慶長小判しか造れなかったのに、金の含有量を減らすことで三枚、三両の元禄小判を造れるようになったということになるのです。慶長小判の代わりに元禄小判を世の中に流通させるとどうなるでしょう。流通させる小判に使う金の量がこれまでに比べ少なくて済みます!ということで江戸幕府は慶長小判を回収し慶長小判に含まれている金を溶かして取り出し、取り出した金の三分の二の量で元禄小判を造りました。残った三分の一の金、これが幕府の懐に入ったのです。世の中に出回っている慶長小判の量はもちろん莫大ですので、慶長小判を回収し元禄小判を造るという作業を続けることで幕府のもとに残る金がどんどん増えていきます。この元禄小判に造り変える作業で幕府の得た利益は500万両程度まで膨れ上がったのだそうです。便宜上、1両が10万円くらいだとしますと、500万両は5000億円くらいの価値ということになります。大変な額ですね。

その一方

前の項目で述べましたように新たな貨幣に変更することで幕府は利益を得ることになったわけですが、その一方で一般の民衆の方々には不満がたまったという指摘もあるようです。この貨幣の変更という制度が物の値段、物価の上昇につながったというのが理由です。元禄小判に変更したことで小判に含まれる金の量が減ったということを、商売をしている人は知らないはずがありません。慶長小判が使われていた時に一両で売っていた品物が仮にあるとしまして、元禄小判になった後も同じ一両の額で販売するかというとそうしたくない商人の方々はどうしても出てくるわけです。金の量が少ない元禄小判の一両で品物と交換すると商人が得られる金の量は慶長小判の時と比べてもちろん少なくなるわけなので、これまでに比べて損することになります。そのためこれまで物を販売することで得ていた金の量に近付ける目的で商人が値上げするという動きも出る結果となりました。物の値段の上昇は特定の物の値段にとどまらず、さまざまな物資の値段に影響することになります。一般の人々が生活を送るにあたってどうしても必要な品物の値段も上がったことから生活が苦しくなり、人々の不満が強まったという見方は多いようです。そのような見方とは別に、貨幣の変更による物価の上昇はそれ程大きなものとはならず、それ自体が民衆の生活を圧迫したわけではない。むしろ貨幣の変更は程々の物価上昇につながり、商人の投資行動を刺激してデフレ、物価が下がり景気が落ち込むのを抑えたといった指摘もあるそうです。その見方の場合、一時お米の値段などがとても高くなったのは貨幣の変更が理由ではなく、その時期の気候の問題でお米の収穫やお米の価格に影響が出たからだと考えられているようです。

今回は徳川綱吉さんの時代におこなわれた貨幣の改鋳について取り上げました。以前の記事で綱吉さんの時代に幕府の財政が悪化したことに触れましたが、その結果幕府がどのような事をして問題を解決しようとしたのかということで幕府の貨幣改鋳が教科書でも触れられています。しかし今一つ質の悪い貨幣に変更することが財政立て直しに繋がるものなのかよくわからない気がしたため、もう少し詳しい内容を確認したく今回のようなテーマの記事を作ってみることとした次第です。当時の日本は金の採掘量が減っていたため少ない金で小判を造ることが出来たというのは世の中を治める側としては確かに利点があるものの、結局採掘された金が小判に使われるために消費されますので幕府にとって大きな収入になるものなのか個人的に疑問がありました。しかし慶長小判を回収して金を取り出して少ない金で元禄小判を造り、余った金が幕府の収入ということになるのであれば確かに幕府が大いに得をすることになります。今回の記事を作っていてこの仕組みを知ることが出来、個人的にはそれなりに納得出来たように感じます。もしこういったカラクリが本当なら世の中に出回る小判の枚数というのは慶長小判が出回っていた頃と似たような数ということになるんでしょうかね。小判を増やしたら金の消費が増えて幕府の利益になりません。慶長小判と似たような枚数だったのだとすれば、改鋳政策は物価の上昇につながった、インフレになったそうですが、紙幣をいっぱい刷って世の中に出回るお金の量を増やすといったインフレに誘導する一部の金融政策のやりかたとはちょっと違うということになります。勘定吟味役としてこの貨幣改鋳に関わった中心人物、荻原重秀さんは国が瓦礫を貨幣としてもいいといったことを書き残しているようで、貴金属と貨幣を切り離して考えることの出来た当時の価値観からすると特異な人物だったという指摘が多いです。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではもぐら綿棒さんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

綱吉さんの有名な政策について触れている話「徳川綱吉さんが生類憐みの令を出した理由は何なのでしょう」はこちらです。

金が通貨と関わってくる他の話「1930年の金解禁とは?その目的や解禁後の影響についても」はこちらです。

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