秦の君主である始皇帝はどの様な政策を実行したのでしょう

秦の始皇帝がおこなった政策

中国大陸の古代に起きた出来事や中国大陸にかつて存在した大国である歴代の王朝の歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では戦国七雄(せんごくしちゆう)などと呼ばれる七つの軍事強国の間で中国大陸の広大な地域の覇権を争った時代、戦国時代に最後まで勝ち残って諸国を統一することに成功した国、秦(しん)の指導者、始皇帝がどのような政策をおこなったかについて私なりに書いてみたいと思います。統一を実現した秦国の当時の君主はもともと政(せい)などと呼ばれていた王様だったようですが諸国統一が叶った後、「皇帝」という呼び名を使うようになりました。最初の皇帝のため皇帝ということになります。彼は他国を吸収した後どの様な政策をおこなって巨大な統一国家、秦をまとめていったのでしょう。政治を補佐する高官の提案を受け入れ、彼は様々な項目について国内共通の規格を設けたと言われています。また中央政府の意向を自国の地方においても忠実に従わせるため、それまでの王朝ではあまりおこなっていなかった仕組みを作ることにしました。他には食料供給や自国の防衛、権威を示すことなどなど、諸々の目的があったと思われますが、大規模な土木、建設事業も推進したことが指摘されておりますし、国が一丸となることを目的として異論を封じるために後の時代に大変批判をされるような、現在の価値観から見たとしてもかなり残酷なことを断行しているようです。統一国家を発展させる上で理にかなっていると思われる政策もあったわけですが、諸政策を実施するにあたって負担を強いられた人々、権限を奪われた人々の反発が始皇帝の死後に一気に噴き出したようです。せっかく統一に成功した国家、秦は長い春秋戦国時代の末に誕生したにもかかわらず意外にもあっけなく亡んで(ほろんで)しまうこととなりました。以下の項目で始皇帝が実行に移した政策について具体的に触れてみたいと思います。

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基準の設定、地方統治

もともと別の国であった地域を吸収して統一したわけですから、かつて秦ではなかった国では秦の社会と異なった習慣が存在しているのは当然です。しかし一つの国になった以上、そのままにしていたのでは不便なことも出てきてしまいます。そのため秦の中央政府は重さや容積、長さといった基本的な項目の単位を国内で統一することにしました。度量衡(どりょうこう)と表現されますが、度は物の長さ、量は物の容積、衡は物の重さのことや測定する道具を意味しています。地域によって使用される単位が異なっていては混乱するので、これで全国共通にしたということです。同様な目的で通貨も統一しました。秦が統一する以前は各国の貨幣が使われていたものの、そのままにしていては物の価値を評価するのに手間取ってしまいます。統一後の秦は半両銭(はんりょうせん)と呼ばれる新しい通貨を作り世の中に流通させました。文字の統一にも手を付けて既に存在していた字を簡略化した新しい字体を定めました。小篆(しようてん)と呼ばれています。他にも物資を運搬するのに欠かせない荷車などの車幅を統一するなどということもおこなっています。轍(わだち)が一定だと車両が動きやすいという利点があります。地方の治め方についても秦のやり方は有名です。国を36の郡(ぐん)に分け、一つ一つの郡をさらに複数の県(けん)に分け、それら地域単位の郡や県に中央政府から統治をおこなうための役人を派遣するという仕組みを作りました。郡県制(ぐんけんせい)というそのままといった感じの名称で呼ばれている仕組みです。それまでの王朝では自分の一族や手柄のあった家臣などに自国の一部の領地を与え、その地域の統治を任せるというやり方(封建制 ほうけんせい)で地方を治めていたわけですが秦国はそのやり方を選びませんでした。封建制では与えた土地はずっと与えられた者の領地ということになりますが、郡県制の場合、中央からある領地に派遣された役人はその領地を自分のものとするわけではなく一定期間治めるだけでいずれまたその地域からいなくなることになります。地域統治者の滞在期間が限られるので、その地域に馴染み独立した勢力になることを防止するのに役立ったようです。また中央から直接統治者が派遣されるわけなので中央の意向がそれまでに比べ地域において忠実に行われやすくもなりました。

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土木・建設、思想統制

始皇帝は大規模な土木、建設事業をおこなったことでもよく知られています。この分野で言えば一番有名なのは万里の長城(ばんりのちょうじょう)でしょう。秦が支配した地域に侵入してくることのあった、秦から見て北方に勢力を持っていた異民族、匈奴(きょうど)に対抗するために整備されたようです。ただ、始皇帝の時代に一から、何もないところから建設したということではなく既に存在していた設備を基礎にし、新たな防御壁も追加して建設したのだそうです。また秦が統一する以前の話となりますが、秦の都、咸陽(かんよう)の北東部に広がる平野に灌漑を目的とした水路、鄭国渠(ていこくきょ)を掘るといった工事をおこなっています。水路の長さが合計120km以上にもなるような、とんでもない規模となりました。この灌漑設備のおかげでそれまでお米など、農産物の生産に向かないとされていた土地で栽培が可能となり収穫量が飛躍的に増加したと言われています。他にも大変大きな宮殿、阿房宮(あぼうきゅう)や始皇帝本人を葬るための巨大なお墓、始皇陵(しこうりょう)を建設する命令を出しました。阿房宮は東西に600m余り、南北に100m余りといった大きさだったそうですし、始皇陵はお墓の部分だけでも一辺が350mほどの四角形、高さが70m余りだというのですからどちらも大変な規模であることがわかります。威厳を示すためにそういった巨大なものを造らせたと考えられていますが、当然大勢の人員がこういった事業のために動員されました。こういった大規模事業は人々の負担が大きくなり反発を買いそうですが、それとは別に始皇帝のおこなった政策の中で評判の悪いものとして特に有名なものに焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)があります。医学書や占い、農業関連書籍などといった当時実用書と考えられた本を除き政権が危険と考える書籍を焼却処分するようにという法令が出されました。この書物を焼き捨てるというのが焚書(ふんしょ)です。また儒教の学者たちを体制に批判的だという理由で弾圧したと言われています。坑儒(こうじゅ)という言葉は儒教の専門家の人たちを生き埋めにしたということを意味しています。大変残酷です。

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今回は中国大陸が混乱した戦国時代を統一によって終わらせた大国、秦の統一後の最初の皇帝、始皇帝の政策について一部取り上げました。以前の記事で秦が大陸の広範囲を統一できた理由や戦国時代に覇を競った国々の同盟の動きについて取り上げたことがありましたが、戦国時代に関する記事も一段落したということで、始皇帝時代の国内政治に目を向けてみようと思い今回のようなテーマの記事にしてみました。有名な政策だけでも色々とあり、その中でも国内社会の利便性を向上させる上でもっともだなぁと感じたり、かつての王朝のありようを分析した結果なのかなぁと感心してしまうようなものもあれば、閉口してしまうものもありました。確かに巨大な宮殿、巨大なお墓は威厳を示す効果があるでしょうが動員される側としては大して利益にもなりませんでしょうし、今を生きている自分から見ても「やってられないね」といった反発がいかにも起こりそうな気がします。それとも嬉々として重労働に励むような人々も結構いたのでしょうか・・・。焚書坑儒については異民族との戦闘が行われていた時期におこなって国を一つにまとめようとしたといった見方もあるようです。さすがに現代の世の中では体制に批判的な人々を生き埋めにするようなとんでもないことはおこなわれたりしませんが、戦争中であれば特に主流の言論機関から政権を批判する意見は消えていくことが往々にしてありますので、批判する意見を自由に言わせないという点では少し似ているのかもしれません。始皇帝が死んだあと反乱の機運が一気に強まったわけですが、どのような政治、政策が最も不評であったがゆえに反乱が強まったのか気になりました。秦滅亡後の混乱期を調べていると手掛かりが出てくるでしょうか。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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