日産コンツェルンとは?鮎川義介や満州との関わりについても

日産コンツェルンとは

 

日産コンツェルン(にっさんこんつぇるん)とは昭和の時代になってから大きく成長することとなった企業集団が複数あるのですが、その企業集団の内の一つです。茨城県の日立に銅を産出する日立鉱山(ひたちこうざん)という鉱山があります。江戸時代には既に銅が産出されるようになっていたようですが、この鉱山の所有権が明治時代転々として久原房之助という人に1905年に渡ります。時代の流れもあって鉱山業は発展しました。第一次世界大戦の大戦景気で銅の需要が増加し莫大な利益を生み出します。しかし世界大戦後不況となって銅の需要も減少しこの鉱山を所有していた久原鉱業の経営が行きづまってしまいました。久原鉱業の経営は久原さんの身内である鮎川義介(あゆかわよしすけ)さんに任されることとなります。鮎川さんのもとで日本産業株式会社という組織に作り直し、日本産業の株式を株式市場に公開し一般投資家に日本産業株を購入してもらう形で資金を確保しました。世界大戦後の不況から一転、犬養毅内閣のもとでの経済政策の効果で景気も次第に回復します。この流れの中で鉱山業の経営状況も回復し日本産業は関連会社の株式公開やすでに株式公開している傘下の会社が新たな株式を発行し株式市場でその株式を購入してもらう方法(増資ぞうし)を用いて資金を確保し、別の事業分野に進出したり、既に存在している企業を合併して子会社にしていきました。日本産業株式会社が関連企業の株を一定割合保有する持株会社(もちかぶがいしゃ)となって関連企業の経営をコントロールする形にして傘下に置いていきます。この方法は時代の流れにも乗って成功し日本産業の直接の傘下となった会社は18社となり資本金は4億5千万円以上にもなりました。従来から存在していた財閥、三井や三菱に引けを取らない規模の額です。ただこの企業集団、日産コンツェルンは第二次世界大戦後、財閥解体政策によってこのような枠組みを解消させられることとなります。コンツェルンというのはある会社Aが別の会社Bの株を大量に保有しその会社Bの経営をコントロールしているような企業関係のことを言います。Aは持株会社であり、BはAの傘下の企業ということになります。

 

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日産コンツェルンと満州の関わり

 

日産コンツェルンは一時期ではありますが、満州国を拠点に活動していました。経営トップの鮎川さんが自発的にそのようにしたわけではなく関東軍、満州国からのはたらきかけがあったことが満州に拠点を移した理由です。満州国内の産業界では南満州鉄道株式会社が圧倒的に強い立場でしたが、あまりに強くなりすぎてこれ以上満州国内での影響力を持たせたくないと関東軍が考え、全く異なる企業集団である日産コンツェルンに満州への参入話を持ちかけたようです。満州に拠点を移したものの当初外国資本の導入をあてにしていた鮎川さんの意向は日本と米国の関係が悪化したこともあって実現せず、経営に関して関東軍からの口出しも目立つようになったことから鮎川さんは結果的に満州での活動からその後手を引くことになります。1937年に満州に拠点を移し、1942年には満州から手を引くことになりますので5年くらいの期間に過ぎなかったわけです。

 

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鮎川義介さん

 

山口県出身のかたです。東京帝国大学の工学の過程を卒業後、素性を明かさず一般の工場従事者と共に就労したりアメリカに渡り一般の工場で仕事をしてアメリカの工業技術を直接学ぼうとするなどユニークな行動をする青年だったようです。上で書いたように身内である久原さんの企業経営を助ける形で日本産業を設立し発展させていきました。満州での活動から手を引いた後一時的に日本政府の顧問となったこともあるようです。第二次世界大戦後は戦争犯罪人の容疑をかけられ結果的には無罪で釈放されますが、釈放されるまでの1年間以上、巣鴨の収容施設で生活しなければなりませんでした。その後は日本の中小企業の為の支援をおこなったり、参議院議員に立候補し当選して国会議員として活動したりと幅広く活動していたようです。1967年(昭和42年)86歳で亡くなられています。

 

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今回は日産コンツェルンについて取りあげてみました。以前新興財閥について取りあげた記事を作ってみましたがその新興財閥の中でも有名なグループですし満州とどうかかわったのかについても調べてみたかったので今回記事にしてみました。会社を立ち上げ株を発行しその株を株式市場に公開して一般投資家に購入してもらってまとまった資金を得るというのは当然一般の株主に対する責任が経営者側に発生してきてプレッシャーにもなるでしょうがやり方によっては会社の経営を大きく発展させる起爆剤にもなるようですね。昭和恐慌後の景気回復という時流に合ったからということもあるでしょうけれど、急成長したのは鮎川さんの優れた経営の才能があったからなのでしょう。しかしそのような才能をもってしても満州国内での関東軍の制約のもとでは経営活動も難しかったようですから、企業活動と政治的な統制というのは相性が悪いということなんでしょうかね。個人的に日産コンツェルンという名前からは自動車メーカーくらいしか思い浮かびませんでしたが、日本産業の傘下にあった企業の名前を見ると今の時代でも押しも押されもせぬ会社が並んでいました。すごい企業集団だったようです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

従来の財閥とは異なる企業集団について触れている話「満州事変後成長した日本の『新興財閥』とは?特徴についても」はこちらです。

戦前栄えた企業集団がバラバラになる出来事に触れている話「日本で財閥解体がおこなわれた理由は何なのでしょう。」はこちらです。

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