吉田松陰さんは松下村塾でどんな教え方をしたのでしょう
松下村塾での吉田松陰さんの教え方
江戸末期の朝廷は鎖国政策を変え、開国するよう求めてくる他国に対し武力を用いて追い払う、攘夷という考え方に一時期傾いていました。朝廷がそのような方針に流れていったことに強く関与していたのは攘夷派の公家や武士の勢力です。その武士勢力の一つに長州藩(萩藩)がありました。長州藩は複数の国々に砲撃した事が理由で、強い反撃をイギリス、アメリカ、フランス、オランダから受け攘夷行動を断念することにはなり、江戸幕府に潰されそうにもなりました。しかしギリギリのところで薩摩藩と同盟を結んで他国の武器兵器を大量に導入し最終的には幕府の率いる大軍を第二次長州征討で撃退することに成功しています。それを境に江戸幕府の影響力は大きく衰退し江戸幕府による全国統治が成り立たなくなり、幕府はとうとう朝廷に政治をおこなう権限を返上することになります。長州藩はその後の日本の舵取りで中心的な役割を果たす勢力となっていきました。この長州藩を率いた指導者層の中に吉田松陰さんの教えを受けた方が多く含まれていたことが知られています。江戸時代中の戦で命を落としていますが久坂玄瑞(くさかげんずい)さんという方がいましたし、長州藩内の意見を幕府に従うのではなく幕府に抵抗するという方針へ一変させることに成功した高杉晋作さんという方もいました。明治時代の初期に政府内で活躍しましたが、その後明治新政府に抵抗する士族反乱の指導者として命を落とすことになる前原一誠(まえばらいっせい)さんというかたもいます。明治時代に入ってから政府内で中心的な役割を果たしていた伊藤博文さんや山県有朋さんも吉田松陰さんの教えを受けた人たちだったようです。他にもたくさんおられるそうですが、こういった方々は吉田松陰さんが教えていた私塾、松下村塾(しょうかそんじゅく)の門下生でした。一地方の、規模が特別大きいわけでもない私塾から国を動かすような人物が多く輩出されたということで吉田松陰さんが教師として関わっていた松下村塾の存在は非常に有名になりました。多くの人材を世に出すこととなった松下村塾ではどのような教育がされていたのでしょう。教えられた分野は広かったようで、自由な教え方だったようですし、個性に応じた指導がされていたとも言われているようです。また松陰さんなりの学ぶことの意義が強調されていたという指摘もあるようです。
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分野、自由な教育
儒学、儒教の学問が教えられていましたし、兵学(軍学)、今でいう軍事学ということになるのでしょうが、戦術など戦い方を研究する学問で、これも教えられていましたし、他に歴史や地理、経済なども教えられていたそうです。時間的なこだわりは無かったそうで門下生が塾に来たら指導を始めるような状態で門下生の状況に合わせて教える教材も変えていたそうです。現在の義務教育の学校や高校、大学のような大勢の生徒を前にして一方的に教師が延々と話をするという形式ばかりではなく、門下生に講義をさせたり、門下生の間で議論をおこなわせ、松陰さんも議論に参加するというやり方も取り入れていたようですし、部屋の中での指導ばかりではなく軍事教練のような実習もおこなわれていたようです。
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個性、学ぶことの意味
また、規模の大きな塾ではないから可能だったとも言えるのでしょうが、一般的には短所とみられそうな特徴があったとしても門下生の個々の性格に応じた接し方をして個人の能力を伸ばそうとしました。負けず嫌いな性格であればそれを利用して発奮させ学問に取り組ませるような、そんな関わり方だったようです。また、松陰さんは学んだ知識を使って世の中を良くするために行動することを門下生に強調し、知識を吸収するだけ、学ぶことそれ自体で終わってしまうことについては批判的だったようです。
今回は江戸時代中の有名人のお一人、吉田松陰さんの松下村塾について一部取りあげました。江戸時代の大きな出来事や仕組みなどはこれまで記事にしてきたことも多かったのですが、有名人に関する話も可能なら記事にしてみたく、幕末の有名人を今回取りあげています。誰にしようかと探していたのですが、長州藩のたくさんの有名人に関わる人ということで吉田さんの記事にしてみました。松下村塾での指導は一方的な授業ではなく一人一人に応じた指導だったという話を目にしてどこかの塾の宣伝文句のようにも感じましたが、それが本当であったなら門下生にとっては意欲的に学べる環境だったことでしょう。
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一緒に農作業をしたり寝泊りすることもあったという話もあるようで門下生との距離も非常に短かったのかもしれません。指導者としての才能を発揮していた松陰さんですが、幕府の政治を批判したという理由で井伊直弼さんが政治を取り仕切っていた頃実施された厳しい懲罰、安政の大獄に巻き込まれ処刑されてしまうことになります。安政の大獄で松陰さんが処刑されていなかったら幕末のその後を松陰さんはどのように活動したのでしょう。久坂さんたちのようにやはり強硬に攘夷を実行しようとしたのでしょうか。それとも他国の力をありのままに見て、まずは戦わずに他国と交流し日本の富国強兵を優先させようとしたのでしょうか。個人的に気になるところです。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
高杉さんの勢力が藩の主導権を握った話について触れている記事「第一次長州征討が終了する頃の長州藩内部で発生した抗争」はこちらです。
吉田さんが命を落とす安政の大獄について触れている話「安政の大獄とは?断行された理由と西郷隆盛の関わりついて」はこちらです。
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