イギリスが香港を「返還」した理由は何だったのでしょう
香港を「返還」した理由
香港は中国大陸の南部にある沿岸の都市で中華人民共和国の南の行政区域、広東省(かんとんしょう)と接しています。現在は中華人民共和国の主権下におかれていますが、中華人民共和国内のほとんどの地域と異なる自治制度が認められた、一国二制度なる仕組みが適用されている特殊な地域でもあります。ただ中華人民共和国中央政府は従来の香港の政治から徐々に多くの中国国内の政治と同じような共産党の統制が強く反映した政治制度に近付けていこうとしているようにも見えます。そのためこれまで自由を比較的謳歌してきた香港の住民の方々が香港の最近の政治に対し反発することも珍しくはないようです。香港が現在のように中華人民共和国のものとなる以前はイギリスが香港地域を統治していました。西暦1997年、イギリスから中華人民共和国に香港が移譲されたことで香港社会に中国の影響が及ぶようになっていったわけです。この出来事を返還と表現することが多いのでこの記事のタイトルでもその表現を用いましたが、イギリスは中華人民共和国から香港を借りたわけではありません。また西暦1997年まで中華人民共和国という国は建国(建国は西暦1949年)以降一度も香港地域を統治した事実はありません。イギリスが香港地域の一部を借りた相手は清国というかつて中国大陸の広範囲を支配していた君主制の、今の中華人民共和国とは全く異なる国家です。話がずれました。香港地域の一部を借りていたイギリスが中華人民共和国に香港地域全てを移譲した理由は何だったのでしょう。軍事的な衝突の回避、水資源の供給を確保するため、中国市場からイギリスが締め出されないようにするためなどといった見方があるようです。
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衝突の回避
イギリスが中国に香港地域を移譲することが決定したのは昭和五十九年、西暦1984年でした。中英連合声明という共同声明を英国と中国両国が発表し、その中で香港を中華人民共和国に移譲することが盛り込まれます。この過程でイギリスと中国は香港地域の帰属について交渉するのですが、当初イギリスは香港地域の大部分である「新界」のみを中国に移譲するつもりでした。香港地域の中で新界に含まれない香港島や九龍(きゅうりゅう クーロンなどと読みます)半島の先端の一部は清国から借りた地域ではなかったからです。過去の清国との条約により香港島と九龍半島の一部地域はイギリスの領土でした。明治31年、西暦1898年に清国とイギリスの間で結ばれた条約によって清国が99年間イギリスに貸すよという約束をしたのは香港地域のうち「新界」だけでした。そういった事情もあって「新界だけ返すわ」という意向を中国に伝えたところ、中国政府は反発したそうです。イギリスのものである香港島も九龍半島の一部も中国に譲るよう要求し、法的には自国領土だったそれらの地域をイギリスは譲り渡してしまう決定をします。交渉の中で中国の指導者はイギリスの首相に対し中国の要求に応じなければ武力行使もあり得ると伝えています。イギリスは中国と戦争になった場合、一方的にやられてしまうほどの弱い国では全くありませんが、香港島と九龍半島のためにわざわざ中華人民共和国と戦争をする必要は無いと考えたのでしょうか、中国の要求を受け入れ自国領も譲るという判断をしました。
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水資源、中国国内の市場
イギリスの領土であった香港島や九龍半島の一部はそこに住む人々が必要とするだけの水を自分たちの地域でまかなうことが出来ず、従来新界から水資源を供給してもらう必要がありました。新界から水の供給をストップされると香港島や九龍半島の先端で生活している人々はとても困るわけです。中国政府はそのことも十分承知で、香港島や九龍半島の一部を中国に譲らなければ香港島や九龍半島一部地域への水の供給を止めるといった実力行使も示唆したそうです。そんなことをされてしまうと香港島などを統治する立場のイギリスとしてはとても困るわけです。また香港地域の移譲問題で対中関係が悪化し中華人民共和国国内で商売ができないようになってしまうとイギリスの経済的な損失は非常に大きくなってしまいます。中国には1980年代初頭10億人くらいの人々が生活していましたので高額な商品を買うことの出来る人は少なかったかもしれませんが巨大な市場だったことは確かです。そこでイギリス製品を売ることが出来ればイギリスの企業はたくさん儲けることが見込めます。しかし英中関係が悪化し中国によって中国国内でのイギリス企業の活動が禁止されてしまうとイギリス企業は儲けそこなってしまいます。イギリスとしては避けたい話でした。
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今回はイギリスが中国に香港地域を譲り渡した理由について取り上げました。先日香港の政治勢力である「香港民族党」という政党に香港政府が活動してはいけないという命令を出したというニュースを耳にして、香港が中華人民共和国の支配下になったら当然政治的な自由も制限されることが予想されたはずなのになぜイギリスが中国に香港を譲ってしまったのかと疑問に感じたためこのようなテーマの記事を作ってみました。イギリスも喜んで中国に譲り渡したわけではなかったようです。中国が武力行使をちらつかせたというあたりは国際情勢の現実の厳しさというものを強く感じますし、商売の機会というのは政策にかなり影響する場合もあるのだなということも改めて感じました。香港政府は現在当然中華人民共和国中央政府の強い影響下にあり中央政府の意向で今回の民族党の禁止命令も出されたわけです。1997年から21年経過する現在(この記事は平成三十年、西暦2018年の9月から11月にかけて作成したものです)ですが香港地域の自治は香港「返還」後50年の間(つまり平成五十九年、西暦2047年まで)認められると英中で1984年に確約されました。一部の政治勢力の活動を禁止する政策が妥当かどうかということはその政治勢力がどのような特徴を持った勢力なのかにもよりますけれど、常識的な活動しかしていない勢力を中国政府が弾圧した場合には他国から見た中華人民共和国の印象はおそらく悪くなることでしょう。香港で生活する人々の自由がこれ以上制限されなければいいのですが。これからどうなっていくのでしょうね。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
イギリス統治の理由となった出来事について触れている話「アロー戦争とは?起きた理由と戦争した国、結ばれた条約について」はこちらです。
香港を譲った清国が消滅する出来事について触れている話「辛亥革命とは?革命が起きた原因や袁世凱についても」はこちらです。
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