歴史で出てくる大化の改新について簡単にまとめてみました

大化の改新とは?簡単にまとめてみますと

大化の改新(たいかのかいしん)について関心を持たれてこの記事のページに来られた皆様こんにちは!この記事では歴史上の有名な出来事である大化の改新について出来るだけ簡単な表現を心掛けて、この出来事に関する内容をまとめてみたいと思います。大化の改新というのは一言で表現すると時の政権がおこなった政治、政策の大きな変更です。緩やかな変更、少しずつの変更ということではなくガラッと急激に変えるということですね。いつ大化の改新がおこなわれたのかですが、大化の改新がおこなわれ出したのは改新の詔(かいしんのみことのり)という当時の天皇から出た政治を大きく変えますという表明を始まりだとしますと西暦646年からということになりますし、政治を大きく変えるにあたって障害となっていた勢力、有力な豪族の象徴、蘇我氏(そがし)の影響力を排除したのを始まりだとするのであれば西暦645年からということになります。どのように政治、政策を大きく変えたのかについては天皇を中心とした、天皇に政治の権限が集中する体制にするように変えたと言えるかと思います。よく挙げられる政策としては「公地公民 こうちこうみん」という人々や土地の所属を明らかにするものやそれに伴って人々に土地を貸し与える班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)というもの、租(そ)、庸(よう)、調(ちょう)に代表される人々に課せられることになる税の負担を示すというもの、地域を国や郡などに区分けして各地域を治めるのが誰かということを明らかにするというものなどがあります。この大きな政治の変更を推し進めた中心人物としては後の天智天皇(てんじてんのう)となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や後に有名な貴族の一門となる藤原氏の先祖である中臣鎌足(なかとみのかまたり)という方々の名前がよく挙げられます。改新の詔が示された時の天皇は孝徳天皇(こうとくてんのう)でした。大化の改新の内容を簡単にまとめると以上のような内容になるかと思います。以下の複数の項目で内容を補足してみます。

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何で大きく政治を変えたのでしょう

大化の改新が政治、政策の大きな変更であることは前の項目で述べましたが、どうしてそのようなことをしたのでしょう。630年以降日本の政権は中国大陸の広大な国、唐(とう)に使節を派遣していました。遣唐使のことですが、そういった遣唐使などからの情報によって君主(王様、皇帝、日本で言えば天皇陛下がそれにあたります)を中心とする政治体制、君主に権限が集まる政治体制が唐のような国で整えられていると日本にも伝わりました。そのため日本の皇族や役人、身分の高い人達の間で日本でもそのような政治体制に変わっていく必要があるのではないかと考える人々が増えたようです。中大兄皇子や中臣鎌足といった人々はもちろんそういった考えの立場でした。

他の中心的人物は

先ほどから出てきている中大兄皇子は皇位継承第一位の立場となり、中臣鎌足は内臣(ないしん)という臨時で設けられた役職を担当して孝徳天皇統治下の世の中で大化の改新を推し進めました。他の重要人物としては阿倍内麻呂(あべのうちまろ)という左大臣(さだいじん)を担当したかたや蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)という右大臣(うだいじん)を担当したかたが有名なようです。左大臣、右大臣は共に政権内で非常に高い立場の役職でした。

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公地公民

公地公民というのはこの国に住む人々、この国の土地は全て天皇のものです、という制度のことです。従来は皇族ではない有力な豪族が幅を利かせていて、そういった勢力が支配する地域で生活する人々や土地を自分たちのものとしていました。そういった有力な豪族の所有していた人々や土地を取りあげて天皇のものとしたということになりますので大きな政策変更ということになります。

班田収授法、租、庸、調

班田収授法は土地を天皇のものとしてその土地を人々に貸し与えて農業に従事してもらうという仕組みを定める決まりです。人々に貸すだけですから、人々に農業従事する土地の私有を認めているわけではありません。貸し与えた土地から収穫される稲について決められた割合を税として納めるのが租(そ)とされ、調(ちょう)は定められた男性に対して課せられることになる税負担で地域の特産物や糸、布などの繊維製品の中から認められるものを納める税負担であり、庸(よう)も一部の男性に割り当てられたもので、労働の義務を免除してもらう代わりに布などを納めるという税負担でした。

国、郡

地方を国、郡といった単位で区分することにしました。国郡制(こくぐんせい)などと言ったりするようです。60以上の国に区分されることになり、国の管理を担当する人材は中央政府から派遣されることになりました。中央政府の役人が赴任して地方を治めることにより地方の有力者が好きに政治をすることが難しくなるので中央政府の地方における権限がそれまでよりも強まることとなったわけです。

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今回は大化の改新について一部取りあげました。有名な歴史上の出来事ですし関連した記事を作ってみようと思って調べていたのですが最近の社会、歴史の授業では大化の改新が政治改革として説明されていて中大兄皇子たちが蘇我氏の中心人物を暗殺するという出来事を意味する用語として使われていないようだということを知り、政治改革としての大化の改新が何なのか改めて確認したくなって今回のようなテーマの記事にしてみました。中央集権の体制を整えるための動き、政治改革だったということのようです。有力な豪族の人々は土地やその土地に住む人々といった財産、労働力を奪われてしまうわけですから当然反発したい所だったのでしょうけれど、豪族のリーダー格の人が暗殺されてしまうような出来事の後の政治改革ですから強く抵抗したら身に危険が及ぶということで中央政府にそのまま従ったということなのでしょうかね。土地や人々が奪われた豪族の勢力に対し中央政府から代わりに給料のようなものが支給されるようなことはしてもらっていたそうです。さすがに何の手当もなく財産を取りあげてしまっては大きな反発を招くことになるということでしょうか。明治政府が江戸時代に大名や武士だった人々にしばらくの間、秩禄(ちつろく)を支給していたのと似ている気がします。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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皇室のしきたりが大きく変化しそうになった話「道鏡という人が天皇になろうとしたのを阻止したというお話」はこちらです。

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