「翼賛選挙」が実施された話です。非推薦者の当選についても
翼賛選挙とは
翼賛選挙(よくさんせんきょ)とは西暦1942年(昭和十七年)4月におこなわれた第21回衆議院議員総選挙のことで、翼賛選挙はこの選挙の通称でした。この前の総選挙は1937年におこなわれています。本来は1941年に4年間の任期満了で衆議院議員総選挙を実施するべきところですが、当時の政権側から選挙を実施するべき状況にないことを理由に衆議院議員の任期を一年間延長する法案が提出され国会で認められた結果法案は成立。法律通り衆議院議員の任期が一年間延長されることとなりました。そして任期が切れることを理由に1942年に衆議院議員総選挙がおこなわれることとなるわけです。中華民国(蒋介石が率いる)重慶国民政府との戦闘に加えアメリカ、イギリス、オランダとの戦争も始まっており、1941年の状況に比べれば日本国はもっと大変な状態ですので、政府内では選挙をおこなわず再び議員の任期を延長すべきだという意見もあったようです。1941年の選挙を延期したのは日本が困難な状況だからという理由だったわけですし。しかし1941年12月以降の日本軍の快進撃もあって、当時の政府の政策に協力する議員を衆議院内で増やす良い機会ととらえた政権側は1941年より明らかに日本国が大変な時期でしたが選挙をすることとしました。この翼賛選挙という言葉は政権側が使っていたようで、1942年2月18日に東条内閣の会議で決定した、きたる4月の総選挙対策の基本方針に関しても「衆議院議員総選挙対策翼賛選挙貫徹運動基本要綱」といった言い方をしています。翼賛という言葉自体には手助けすることや支援するといった意味があるようです。
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東条内閣の対応
この選挙で当時の政権、陸軍出身の東条さんの政権である東条内閣は通常の選挙、これまで行われてきた衆議院議員選挙と異なる手法を導入してしまいます。選挙の前に東条内閣が働きかけて団体を作ります。翼賛政治体制協議会という、あくまで民間組織ということになっている団体です。この団体が今度の4月に行われる衆議院議員選挙に立候補する人物に関し推薦するかどうかの判断をおこないました。そして推薦候補とした候補者に対しては選挙の支援をおこなう役目もこの団体は担当したそうです。この翼賛政治体制協議会が推薦する候補者というのは政府の方針に従うと見なされた人ということになります。推薦候補者に対する翼賛政治体制協議会の支援というのは応援する人を動員することに限らず選挙活動に必要な金銭面での支援も含まれたようです。このお金の出所は政府の軍事費でした。民間団体が勝手にやっていること、という装いになってはいるものの、政府の意向を強く反映させる選挙にしたようです。
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非推薦者の当選
一方、翼賛政治体制協議会に推薦されない人も選挙に立候補することは出来ました。「非推薦候補」というのはこの協議会に推薦候補者として認められていない選挙候補者のことです。推薦候補者でなければ選挙に立候補できないよという仕組みではないだけまだましかもしれませんが、非推薦候補者に対しては選挙期間中に妨害行為がおこなわれることもあったそうです。推薦候補者が当選した割合は推薦候補者461人中381人が当選したそうなので、82.6%になります。非推薦候補者の数は613人だったそうですが当選したのは85名でした。13.8%です。非推薦候補者の人たちにとっては厳しい選挙戦になったようです。非推薦候補者として選挙を戦って当選した人たちの中には「憲政の神様」と言われた尾崎行雄さんや粛軍演説や反軍演説で有名な斎藤隆夫さん、戦後に日本船舶振興会の会長となった笹川良一さん、5・15事件で暗殺された犬養毅さんの御子息でいらっしゃる犬養健さん、戦後総理大臣になった芦田均さん、鳩山一郎さん、三木武夫さんといった方々がおられました。
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今回は翼賛選挙について取りあげました。最近扱っている時代とは全く異なるのですが、久しぶりに終戦前の話題も扱いたくこのようなテーマの記事を作っております。非常に特殊な選挙となったわけですし、非常時に権力者はこういうことをすることもあるのだという点で知っておいた方が良いようにも感じました。この選挙について調べてみましたが、とても公正な選挙には思えません。政府が当選させたい候補には様々な団体が支援して政府から選挙資金まで出してもらえるのに、一方非推薦候補は選挙干渉されてしまうのですから。また、1941年に衆議院議員の任期を一年間延長することを決定した当時の政権の対応はどうだったんでしょうね。延長を決定したのは第2次近衛内閣です。中華民国との戦闘が長期化して、まだ石油は止められていなかった頃でしょうけれど屑鉄輸出禁止などの経済制裁もされているわけですから確かに大変な時期ではあったことでしょう。しかしそういう時だったからこそ民意を確認するという考え方もあるような気はします。戦争によって民意の確認を二の次にするのは仕方無いで済ませてよいことなのかどうか。意見が分かれるところかもしれません。この翼賛選挙、当時の政権にとっては選挙民によって政府の方針は強く支持されたという事実が欲しかったということなのでしょう。やるからには選挙は公正であるべきですし、こういうやり方の選挙をおこなえば国会開設を望まれた明治天皇を始めとした先人の方々の志を汚すことにもなってしまうでしょう。今後このような選挙がおこなわれないような世の中であってほしいものです。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
この選挙の二年前に強まった政治運動について触れている話「近衛文麿も入る1940年の新体制運動とは?内閣への影響も」はこちらです。
選挙の名称と一部言葉が重なる大政翼賛会について触れている話「1940年に発足した大政翼賛会とは?政党の反応についても」はこちらです。
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